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シンビズム「今、ここで、」に関する学芸員テキスト
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シンビズム「今、ここで、」
信州は自然に恵まれている。それゆえ、ここに暮らす人々をはじめ、この地に多くの人々が訪れ、その豊かさとやさしさに抱かれ、心地よさと美しさに魅了されてきた。山々や水の流れ、農耕や神々の祭りに心寄せ、感慨と賛美がそれらをモチーフにして文学や美術の表現が試みられ、人々の心を癒し、勇気づけてきた。信州の各地に、大きくはないが特色ある美術館が多いのも頷けるところである。
一方、この地にあって、今日の美術へと続いてきた新たな表現を模索し、内外に発表、発信する活動も多くはなかったが、命脈をつないできた。
昨年、この信州ゆかりの若手美術作家のなかから、挑戦的で新しい表現を追求している20人を、県内各所で特徴ある活動を続けている美術館の学芸員20人が選んで紹介する初の試みがスタートした。
「信州の」「新しい」を掲げた「シンビズム」展は、個人の営みながらその取り巻く環境や時代、社会に無縁ではない美術の表現に、身近に親しんでいただくためのトライアルな取り組みとして第2回を迎えた。
とはいえ、20人が推薦した20人の作家の作品は、県内4会場に分かれての展示とあいまって、それぞれが個性を放ち、観る者には四分五散な印象が強い。それでも、各作家の制作が根ざすところと、けっして心地よいものばかりではないが、それぞれの表現とじっくり向き合いたい。各推薦学芸員によるテキストや会場ごとの紹介文が充実しており、屋上屋を架すのではないかと恐れるが、20人の作品を概観してみたい。
中村眞美子の素描のような版画は、雪原に枯れ残る野草の数々をドライポイントならではの効果を生かして表現。やわらかな雪と、そのなかで折れる茎との対比に、雪の多い北信に生まれ育った彼女の実感がいきいきと伝わってくる。
やはり信州の自然のなかで生まれ育った記憶や体験を作品のモチーフに据える伊藤三園は、命をつないでいる道ばたの身近な草花、動物や昆虫を切り絵に表現する。ワークショップ参加者の作品も展示し、人々との交流による啓発を目論む。
東京で生まれ育った末永恵理は、2000年を目前に八ヶ岳の山麓に居を移すと、豊かな自然に出会い、制作を再スタートした。樹を擬人(神)化したり、森の精霊をイメージした作品から三角形が次々に増殖する有機的な作品へと至り、山登りをしながら得た感覚と思考を無数の点で埋める。
源馬菜穂は身近に実在する風景をモチーフにするが、自分と風景との対置を超えて、自分を包む自然の空気そのもののような画面を作る。油彩というが、筆のストロークを生かした薄塗りの画面には輪郭線はなく、光のやさしさや清々しささえ伝わってくる。
橋口優も、八ヶ岳を仰ぎ、諏訪湖を眼前にするこの地で育った。生地を離れてから、学校に通った子どもの頃の記憶をモチーフに、音さえ聞こえてこない学校のありふれた光景を描いてきた。それに続く山のシリーズも、学校で遊んだ裏山の思い出が基層に横たわる。
信州で生まれ育ち、ここに暮らす越ちひろは、青年期の記憶と経験から、この地の原風景を自身の内なるモチーフとして抱え込む。どこまでも連綿と続く濁りのない色彩の饗宴。それに、筆の自在なストロークが踊る見たこともない形象。絵の具が浸透する身体がそこにあるようだ。
巨大な立体のボリュームと光を探して、山岳写真家は何年もかけて3000mを超す山々に登りつめてきた。季節を問わずそこに身体を運ぶ姿を私たちは彷彿とさせられてきた。しかし、富士山で600日滞在した写真家山内悠のフィルムには、山の姿は写っていない。地上の尖端で生きる山小屋の主人と、宇宙へ解き放たれた空間に広がる雲と差し込む光が写し込まれている。撮影が続くモンゴルや屋久島は、表層がそぎ落とされ、生の大地と自然がむき出しのところ。そこにこそ山内の写真の仕事が成立する。
Yoshimi Hayashiは長年自然と人間との関係を、固有の場所にこだわって表現してきた。また、言葉は繰り返されることで自身を変えていくという。はかない素材で表現された文字の作品はかき消され、空虚なものとなるが、その地の川の中州に相似的に出現。川の流れにまたかき消される。空間を共有し、地域のモチーフとそこに生きる人々が関われる仕掛けを提案し、自然の状態にいる者こそが自由な表現が可能だと教えてくれる。
家々の近くに佇む石の神の数々。そこは村と異界とのボーダー。大輪の花のうえに座る物憂い視線の少女たち。花は地のなかから空間へ突き出た尖端でもある。平林孝央は、子どもから大人へのプロセスにある少女を、そうした境界に見立てているかのようだ。長く信仰が渦巻いてきた諏訪に生まれ、縄文以来のさまざまなモチーフを気に留めて制作している。
伊藤純代は子どもの頃、捕まえたトンボの内側を見たいがために殻を剥く行為を繰り返し、遊び場だった森で動物の死骸を目にした。生き物の生と死への関心がその後の制作へと繋がる。何十体もの着せ替え人形の顔が集まり、削られたボディの表面が貼りこまれた新たな像が出現。エンドレスな生と死の循環を提示する。
山上晃葉は初め、細胞分裂するレリーフ状の人体をリトグラフで表現。プリントや布を素材にしたソフトな立体造形へ移り、命の宿る生命体、身体の内と外、表面と内実との表層のイリュージョンとその相反を投げかける。細胞から成り立つ人体は常に更新され、時間の流れのなかにある。山上はさらに、人間の生と死を超えて存在する時間や思想をも意識する。
10代前半から制作発表したというOZ−尾頭−山口佳祐は、「絵師」と名乗り、モチーフは多岐にわたる。表現方法も絵画にとどまらず、パフォーマンスやインスタレーションにも広がっているが、そうした近現代の美術の用語とジャンルを骨抜きにするような活動を国内外で続けている。この地の伝統や民俗、固有の土地や場所に動機を得て、表現がさらに展開。
山上渡の表現方法も、平面や立体作品、インスタレーションやパフォーマンスと幅広い。私たちが日常や社会のなかで意識していないもの、気付いていないものを可視化する。南アジアや南米、日本の南西諸島などへの放浪が、エゴイスティックな人間の営為への問い直しに根ざす制作や、現実と非現実を往還する表現へと至っているのであろう。
上田謙二の作品は、少年時代を過ごした長崎、移り住んだ軽井沢、それぞれの地で日常のなかから心動かされたものがモチーフとなっている。歯科技工の技術を生かした樹脂のボトルは、きっと誰かに届くという希望を載せて大海に漂うガラス瓶だ。自然のなかに暮らし、ひっそりと生をつなぐ草花への慈しみも作品となった。
絵画や彫刻では油彩の厚塗りやモデリングの表面に「触りたくなる」というが、マチエールは触覚に根ざしながら、視覚をとおしてことのほか私たちの知覚をくすぐる。何層にも及ぶ漆塗りのしっとりした感触は、長く私たちの暮らしのなかでなじんできた。木曽で漆に魅せられた橋本遥は、漆芸の振興・普及に取り組みながら、意表を突く作品も手がける。人体や頭骨の表層と奥行きは、近代以前の伝統技法を感じさせない、新たなメッセージを宿す表現として今後が期待される。
粘土を素材に焼成する「クレイ・ワーク」は、超絶表現や抽象表現とマッチングして新たな領域を開いてきた。藤野貴則は釉描色絵の技法に腕を顕す陶芸家ながら、ネジやペットボトルをリアルに作陶する。現代社会に漂う符号のような私たちを表象するかのようだ。工芸と現代美術のアポリアを超えた展開には新たな方向が潜んでいる。
西澤千晴は都市で働く人々や家族の姿を描き込み、今日の都市社会を俯瞰する。ユーモラスに見えながら、モザイクのように広がる都市に散り散りに浮遊する自分の姿が映っている鏡のようでもあり、ハッとする。この国では個人が弱いというが、「私的な個人」が広がっている。
齋藤春佳は、絵画、映像、インスタレーションと多様な表現を繰り出す。自身が目にした日常のありふれた光景が記憶され、キャンバスに次々と描き加えられ、つながっていく。過ぎていく時間のなかで描いたもの、作ったものが、散文調の長い言葉で名付けられる。映像やインスタレーションでさえ、時間のなかで消滅しないための斎藤自身の願いと仕掛けでもある。記憶と未来、その間の日常とをつなぐ自身の制作位置を、重力と光年の時間とで構成される宇宙空間から眺める。
あふれる携帯端末が人々さえもデジタルな存在にする今日、高木こずえは、データと化した写真を、今回版画の技法をとおして再び手仕事の領域に引き戻そうとする。
ポジとネガの関係のように、イリュージョンとリアリティーが繰り返し現れ、連鎖していく。版と刷りに至ったプロセスも、写真の実体をつかもうとする高木のチャレンジだろう。
最後にカミジョウミカ。身体にハンディキャップを持ちながらも、「描くことが楽しくてしょうがない」という彼女は、薬のカプセルなど身近な素材を次々に作品に仕立てる。「描きたい」「作りたい」ことが生きていることと表現することの原点かもしれない。
写真も絵画も、眺める風景として親しんできた私たちは、自然の空間に包まれ、溶け込みながら信州の自然の新しいとらえ方、表現の仕方を提示する同時代の作家にも目を向けたい。また、信州ゆかりの冒険者やチャレンジャーの表現は、けっして心地よいものばかりではないが、新しい視点やアプローチに接してほしい。広く、また深く作品と向き合い、作家からのメッセージに触れると、自身が自由で独立した存在であることに気付くことができるはずだ。それがこの地の美術の新たな潮流を作っていくことにつながる。
一方、この地にあって、今日の美術へと続いてきた新たな表現を模索し、内外に発表、発信する活動も多くはなかったが、命脈をつないできた。
昨年、この信州ゆかりの若手美術作家のなかから、挑戦的で新しい表現を追求している20人を、県内各所で特徴ある活動を続けている美術館の学芸員20人が選んで紹介する初の試みがスタートした。
「信州の」「新しい」を掲げた「シンビズム」展は、個人の営みながらその取り巻く環境や時代、社会に無縁ではない美術の表現に、身近に親しんでいただくためのトライアルな取り組みとして第2回を迎えた。
とはいえ、20人が推薦した20人の作家の作品は、県内4会場に分かれての展示とあいまって、それぞれが個性を放ち、観る者には四分五散な印象が強い。それでも、各作家の制作が根ざすところと、けっして心地よいものばかりではないが、それぞれの表現とじっくり向き合いたい。各推薦学芸員によるテキストや会場ごとの紹介文が充実しており、屋上屋を架すのではないかと恐れるが、20人の作品を概観してみたい。
中村眞美子の素描のような版画は、雪原に枯れ残る野草の数々をドライポイントならではの効果を生かして表現。やわらかな雪と、そのなかで折れる茎との対比に、雪の多い北信に生まれ育った彼女の実感がいきいきと伝わってくる。
やはり信州の自然のなかで生まれ育った記憶や体験を作品のモチーフに据える伊藤三園は、命をつないでいる道ばたの身近な草花、動物や昆虫を切り絵に表現する。ワークショップ参加者の作品も展示し、人々との交流による啓発を目論む。
東京で生まれ育った末永恵理は、2000年を目前に八ヶ岳の山麓に居を移すと、豊かな自然に出会い、制作を再スタートした。樹を擬人(神)化したり、森の精霊をイメージした作品から三角形が次々に増殖する有機的な作品へと至り、山登りをしながら得た感覚と思考を無数の点で埋める。
源馬菜穂は身近に実在する風景をモチーフにするが、自分と風景との対置を超えて、自分を包む自然の空気そのもののような画面を作る。油彩というが、筆のストロークを生かした薄塗りの画面には輪郭線はなく、光のやさしさや清々しささえ伝わってくる。
橋口優も、八ヶ岳を仰ぎ、諏訪湖を眼前にするこの地で育った。生地を離れてから、学校に通った子どもの頃の記憶をモチーフに、音さえ聞こえてこない学校のありふれた光景を描いてきた。それに続く山のシリーズも、学校で遊んだ裏山の思い出が基層に横たわる。
信州で生まれ育ち、ここに暮らす越ちひろは、青年期の記憶と経験から、この地の原風景を自身の内なるモチーフとして抱え込む。どこまでも連綿と続く濁りのない色彩の饗宴。それに、筆の自在なストロークが踊る見たこともない形象。絵の具が浸透する身体がそこにあるようだ。
巨大な立体のボリュームと光を探して、山岳写真家は何年もかけて3000mを超す山々に登りつめてきた。季節を問わずそこに身体を運ぶ姿を私たちは彷彿とさせられてきた。しかし、富士山で600日滞在した写真家山内悠のフィルムには、山の姿は写っていない。地上の尖端で生きる山小屋の主人と、宇宙へ解き放たれた空間に広がる雲と差し込む光が写し込まれている。撮影が続くモンゴルや屋久島は、表層がそぎ落とされ、生の大地と自然がむき出しのところ。そこにこそ山内の写真の仕事が成立する。
Yoshimi Hayashiは長年自然と人間との関係を、固有の場所にこだわって表現してきた。また、言葉は繰り返されることで自身を変えていくという。はかない素材で表現された文字の作品はかき消され、空虚なものとなるが、その地の川の中州に相似的に出現。川の流れにまたかき消される。空間を共有し、地域のモチーフとそこに生きる人々が関われる仕掛けを提案し、自然の状態にいる者こそが自由な表現が可能だと教えてくれる。
家々の近くに佇む石の神の数々。そこは村と異界とのボーダー。大輪の花のうえに座る物憂い視線の少女たち。花は地のなかから空間へ突き出た尖端でもある。平林孝央は、子どもから大人へのプロセスにある少女を、そうした境界に見立てているかのようだ。長く信仰が渦巻いてきた諏訪に生まれ、縄文以来のさまざまなモチーフを気に留めて制作している。
伊藤純代は子どもの頃、捕まえたトンボの内側を見たいがために殻を剥く行為を繰り返し、遊び場だった森で動物の死骸を目にした。生き物の生と死への関心がその後の制作へと繋がる。何十体もの着せ替え人形の顔が集まり、削られたボディの表面が貼りこまれた新たな像が出現。エンドレスな生と死の循環を提示する。
山上晃葉は初め、細胞分裂するレリーフ状の人体をリトグラフで表現。プリントや布を素材にしたソフトな立体造形へ移り、命の宿る生命体、身体の内と外、表面と内実との表層のイリュージョンとその相反を投げかける。細胞から成り立つ人体は常に更新され、時間の流れのなかにある。山上はさらに、人間の生と死を超えて存在する時間や思想をも意識する。
10代前半から制作発表したというOZ−尾頭−山口佳祐は、「絵師」と名乗り、モチーフは多岐にわたる。表現方法も絵画にとどまらず、パフォーマンスやインスタレーションにも広がっているが、そうした近現代の美術の用語とジャンルを骨抜きにするような活動を国内外で続けている。この地の伝統や民俗、固有の土地や場所に動機を得て、表現がさらに展開。
山上渡の表現方法も、平面や立体作品、インスタレーションやパフォーマンスと幅広い。私たちが日常や社会のなかで意識していないもの、気付いていないものを可視化する。南アジアや南米、日本の南西諸島などへの放浪が、エゴイスティックな人間の営為への問い直しに根ざす制作や、現実と非現実を往還する表現へと至っているのであろう。
上田謙二の作品は、少年時代を過ごした長崎、移り住んだ軽井沢、それぞれの地で日常のなかから心動かされたものがモチーフとなっている。歯科技工の技術を生かした樹脂のボトルは、きっと誰かに届くという希望を載せて大海に漂うガラス瓶だ。自然のなかに暮らし、ひっそりと生をつなぐ草花への慈しみも作品となった。
絵画や彫刻では油彩の厚塗りやモデリングの表面に「触りたくなる」というが、マチエールは触覚に根ざしながら、視覚をとおしてことのほか私たちの知覚をくすぐる。何層にも及ぶ漆塗りのしっとりした感触は、長く私たちの暮らしのなかでなじんできた。木曽で漆に魅せられた橋本遥は、漆芸の振興・普及に取り組みながら、意表を突く作品も手がける。人体や頭骨の表層と奥行きは、近代以前の伝統技法を感じさせない、新たなメッセージを宿す表現として今後が期待される。
粘土を素材に焼成する「クレイ・ワーク」は、超絶表現や抽象表現とマッチングして新たな領域を開いてきた。藤野貴則は釉描色絵の技法に腕を顕す陶芸家ながら、ネジやペットボトルをリアルに作陶する。現代社会に漂う符号のような私たちを表象するかのようだ。工芸と現代美術のアポリアを超えた展開には新たな方向が潜んでいる。
西澤千晴は都市で働く人々や家族の姿を描き込み、今日の都市社会を俯瞰する。ユーモラスに見えながら、モザイクのように広がる都市に散り散りに浮遊する自分の姿が映っている鏡のようでもあり、ハッとする。この国では個人が弱いというが、「私的な個人」が広がっている。
齋藤春佳は、絵画、映像、インスタレーションと多様な表現を繰り出す。自身が目にした日常のありふれた光景が記憶され、キャンバスに次々と描き加えられ、つながっていく。過ぎていく時間のなかで描いたもの、作ったものが、散文調の長い言葉で名付けられる。映像やインスタレーションでさえ、時間のなかで消滅しないための斎藤自身の願いと仕掛けでもある。記憶と未来、その間の日常とをつなぐ自身の制作位置を、重力と光年の時間とで構成される宇宙空間から眺める。
あふれる携帯端末が人々さえもデジタルな存在にする今日、高木こずえは、データと化した写真を、今回版画の技法をとおして再び手仕事の領域に引き戻そうとする。
ポジとネガの関係のように、イリュージョンとリアリティーが繰り返し現れ、連鎖していく。版と刷りに至ったプロセスも、写真の実体をつかもうとする高木のチャレンジだろう。
最後にカミジョウミカ。身体にハンディキャップを持ちながらも、「描くことが楽しくてしょうがない」という彼女は、薬のカプセルなど身近な素材を次々に作品に仕立てる。「描きたい」「作りたい」ことが生きていることと表現することの原点かもしれない。
写真も絵画も、眺める風景として親しんできた私たちは、自然の空間に包まれ、溶け込みながら信州の自然の新しいとらえ方、表現の仕方を提示する同時代の作家にも目を向けたい。また、信州ゆかりの冒険者やチャレンジャーの表現は、けっして心地よいものばかりではないが、新しい視点やアプローチに接してほしい。広く、また深く作品と向き合い、作家からのメッセージに触れると、自身が自由で独立した存在であることに気付くことができるはずだ。それがこの地の美術の新たな潮流を作っていくことにつながる。
赤羽 義洋 (辰野美術館)
Shinbism - “The Here and Now”
Shinshu is blessed with nature. Being motivated by the richness and beauty of nature in Shinshu, a wealth of literary and artistic works have been created here, which fascinate viewers, while healing and encouraging them. It’s understandable that there are so many unique museums here, though not large in sizes. Though some artists are actively working, seeking for new ways of expression and appeal to those inside and outside the prefecture, their number is not so many, however, so far, they have managed to survive to the present day.
Last year, the exhibition of “Shinbism” was initiated. It was the first event for which twenty curators of museums in Shinshu selected and introduced twenty young artists, based in Shinshu, seeking to challenge themselves in new ways of artistic expression. The exhibition gave chances for viewers to expose themselves to the artists’ messages and appreciate their works. In this second exhibition, a variety of expressions by these twenty new and versatile artists are introduced as well.
The artists – some of which were born and raised in Shinshu, and others that relocated from other places – develop their diverse expressions based on motives such as their encounters and memories of nature in their works. GENMA Naho conjures in her paintings, images of the “air” in the innate nature surrounding her. SUENAGA Eri embodies her sensibility and thought, absorbed from her mountain climbing experiences, in dot-filled works. HASHIGUCHI Yuu creates pieces based on her reminiscence of the hill behind her house where she played as a child. KOSHI Chihiro depicts original landscapes of her birth place, utilizing various feast-like colors. NAKAMURA Mamiko reflects, in her dry-point printworks, her sensibility sharpened through life in the northern part of Shinshu which is laden with snow. ITO Misono represents flowers and insects that surround us in her paper cutting works. Yoshimi HAYASHI tells us that only those who are in their natural conditions can attain the freedom of independent expression.
The photographer, YAMAUCHI Yu shot the clouds spreading under the magnificent cosmic space above us and captured the light filtering in through them during his long stay in a hut on Mt. Fuji.
Then, there is ITO Sumiyo, who exhibits the endless cycle of life and death using materials such as the faces and bodies of dozens of dress-up dolls. YAMAKAMI Akiha, in her three-dimensional works made of soft materials representing living organisms, also incorporates a thought of time existing beyond life and death as well.
Being motivated by tradition, folklore and geographic features indigenous to this area, OZ-YAMAGUCHI Keisuke evolves his representations widely, HIRABAYASHI Takahiro, depicting girls sitting or lying on large flowers, embodies the border between the spiritual world and the extant.
YAMAKAMI Wataru visualizes things in our society which are seldom sensed and questions our egoistical lives. NISHIZAWA Chiharu, in depicting people and families working in the cities, views contemporary urban life critically from a bird’s-eye point of view. The resin bottles by UEDA Kenji, who spent his childhood in Nagasaki, symbolize bottles containing messages floating on the ocean with a slight hope that they would surely be found by someone.
Now, I would like to introduce two artists working with lacquer and ceramics, both of which seemingly exceed the aporia of craft and contemporary art. The startling human bodies and skeletons by HASHIMOTO Haruka, who was fascinated by the possibilities of Japanese lacquer, present a new way of expression coupled with his message. The realistic ceramic works by FUJINO Takanori, portraying screws and PET bottles seem to symbolize us as helplessly adrift in contemporary society.
SAITO Haruka, from the cosmos consisting of gravity and light years, views her stand point of creation objectively, connecting the reminiscence of days of old, with the future of humanity to her daily life inseparable in-between them. Nowadays, while the terminals of our cellphones are overloaded everywhere, driving us into a digital existence, TAKAGI Cozue tries to revitalize handiwork from her digitalized photos in her printing technique.
Lastly, KAMIJO Mika, despite all her physical handicaps, says, “to draw is a delight” and creates her works utilizing various materials around her. The desire to “draw” and to “create” might motivate her to live and express herself in art.
This representation by Shinshu-based explorers and self-challengers is not always meant for the comfort of viewers. However, I would like the viewers to unshield themselves to new ways of interpretation and depiction in contemporary art and the human condition.
Please note, of course, that “Shinbism” does not attempt to compile the Shinshu version of contemporary art history.
Last year, the exhibition of “Shinbism” was initiated. It was the first event for which twenty curators of museums in Shinshu selected and introduced twenty young artists, based in Shinshu, seeking to challenge themselves in new ways of artistic expression. The exhibition gave chances for viewers to expose themselves to the artists’ messages and appreciate their works. In this second exhibition, a variety of expressions by these twenty new and versatile artists are introduced as well.
The artists – some of which were born and raised in Shinshu, and others that relocated from other places – develop their diverse expressions based on motives such as their encounters and memories of nature in their works. GENMA Naho conjures in her paintings, images of the “air” in the innate nature surrounding her. SUENAGA Eri embodies her sensibility and thought, absorbed from her mountain climbing experiences, in dot-filled works. HASHIGUCHI Yuu creates pieces based on her reminiscence of the hill behind her house where she played as a child. KOSHI Chihiro depicts original landscapes of her birth place, utilizing various feast-like colors. NAKAMURA Mamiko reflects, in her dry-point printworks, her sensibility sharpened through life in the northern part of Shinshu which is laden with snow. ITO Misono represents flowers and insects that surround us in her paper cutting works. Yoshimi HAYASHI tells us that only those who are in their natural conditions can attain the freedom of independent expression.
The photographer, YAMAUCHI Yu shot the clouds spreading under the magnificent cosmic space above us and captured the light filtering in through them during his long stay in a hut on Mt. Fuji.
Then, there is ITO Sumiyo, who exhibits the endless cycle of life and death using materials such as the faces and bodies of dozens of dress-up dolls. YAMAKAMI Akiha, in her three-dimensional works made of soft materials representing living organisms, also incorporates a thought of time existing beyond life and death as well.
Being motivated by tradition, folklore and geographic features indigenous to this area, OZ-YAMAGUCHI Keisuke evolves his representations widely, HIRABAYASHI Takahiro, depicting girls sitting or lying on large flowers, embodies the border between the spiritual world and the extant.
YAMAKAMI Wataru visualizes things in our society which are seldom sensed and questions our egoistical lives. NISHIZAWA Chiharu, in depicting people and families working in the cities, views contemporary urban life critically from a bird’s-eye point of view. The resin bottles by UEDA Kenji, who spent his childhood in Nagasaki, symbolize bottles containing messages floating on the ocean with a slight hope that they would surely be found by someone.
Now, I would like to introduce two artists working with lacquer and ceramics, both of which seemingly exceed the aporia of craft and contemporary art. The startling human bodies and skeletons by HASHIMOTO Haruka, who was fascinated by the possibilities of Japanese lacquer, present a new way of expression coupled with his message. The realistic ceramic works by FUJINO Takanori, portraying screws and PET bottles seem to symbolize us as helplessly adrift in contemporary society.
SAITO Haruka, from the cosmos consisting of gravity and light years, views her stand point of creation objectively, connecting the reminiscence of days of old, with the future of humanity to her daily life inseparable in-between them. Nowadays, while the terminals of our cellphones are overloaded everywhere, driving us into a digital existence, TAKAGI Cozue tries to revitalize handiwork from her digitalized photos in her printing technique.
Lastly, KAMIJO Mika, despite all her physical handicaps, says, “to draw is a delight” and creates her works utilizing various materials around her. The desire to “draw” and to “create” might motivate her to live and express herself in art.
This representation by Shinshu-based explorers and self-challengers is not always meant for the comfort of viewers. However, I would like the viewers to unshield themselves to new ways of interpretation and depiction in contemporary art and the human condition.
Please note, of course, that “Shinbism” does not attempt to compile the Shinshu version of contemporary art history.
Akahane, Yoshihiro (Tatsuno Museum of Art)