What is your starting point? “ あなたの原点は何か?
MIYASAKA Ryousaku
土と、自然と結びついたコンセプチュアル・アート
宮坂 了作
MIYASAKA Ryousaku
土と、自然と結びついたコンセプチュアル・アート
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1972年、私は「ハプニング」の創始者であるアラン・カプローがクラスを開いていたカリフォルニア芸術大学(CalArts)に留学しました。いまでも忘れられないのはハプニングの最初の授業でアラン・カプローより「あなたの原点(Starting Point)は何か」と問われたことで、私は考えてしまいました。私の原点とは、生家が米作りの農家で諏訪の地で大地を耕していましたので、そこかなと思い、アースワークの作品を≪A・ファイア・フェスティバル≫(1972年)と名付けました。日本の京都の「大文字焼き」からの発想で、アメリカのAであり、アートのAであるAの文字のパターンを大地の丘に掘り、そこにゴミを入れて燃やして焼き畑農業をし、そこに土を被せ、花の種を蒔いてAの形に花を咲かせる作品です。私の絵画は、そのアースワークの作品が大地なので地図で表現しています。それで、現在も地図の絵を描いています。私の絵はすべて立体になります。
In 1972, I went to the U.S.to study art at California Institute of the Arts (CalArts) where, Allan Kaprow, the founding father of the “Happening,” was teaching then. Even now, I still remember being asked, “What’s your starting point?” in his first class of the Happening. I brooded over the answer and thought that since I was born in a rice-farmer’s family which followed the plow in the Suwa region of Nagano Prefecture, that might actually be the point. This revelation triggered me to produce earth artwork, the inspiration for which came from the “Daimonji-yaki” in Kyoto. First, I dug an A-shaped hole into the earth on a hill, and then filled it with garbage, burned it using the slash-and-burn technique in agriculture, then covered it with soil to sow flower seeds in it. Finally, I presented an A-shaped flowerbed work entitled “A - Fire Festival” in 1972. In this case, ‘A’ stands for America and Art. Because my earthwork represents the earth, each of my paintings is like a map. I continue to produce map-like paintings, all of which could be transformed into three-dimensions.
主な経歴
Career
- 1950
- 長野県諏訪市生まれ(本名 正次)
- 1968
- 長野県岡谷南高等学校卒業
- 1970
- 日本大学芸術学部入学
- 1971
- 高松次郎塾第1期生、高松のアシスタントとして制作
- 1972
- カリフォルニア芸術大学(CalArts)2年生に編入
アラン・カプロー、ジョン・バルデッサリに師事
ハンス・ハーケの作品に参加
- 1973
- クーパー・ユニオン・アート・スクールに国内留学
日本大学芸術学部中退
- 1974
- カリフォルニア芸術大学卒業(BFA、美術学士)
帰国、東京都中野区に居を構える
- 1980
- 郷里に戻り、農業を営みながら制作を続ける
主な受賞歴
Award
- 2006
- サロン・ドートンヌ展入選(フランス)
主な作品発表歴
Release
- 1972
- ハプニング《A・ファイア・フェスティバル》を実施
- 1974
- 「5人展」(Qギャラリー/アメリカ)
- 1976−1980
- 個展(サトウ画廊/東京都)
- 1985・1987
- 個展(村松画廊/東京都)
- 1993
- 個展(シロタ画廊/東京都)
- 2000
- 個展(ギャラリー深志/松本市)
- 2001
- 個展(チロルの森/塩尻市)
- 2007
- 個展(シンワアートミュージアム/東京都)
- 2007・2009
- 個展(河西画廊/諏訪市)
- 2008
- 「松澤宥オマージュ展」(碌山公園研成ホール/安曇野市)
- 2009
- 「ススム・サカグチ 宮坂了作二人展」(ジェイトリップアートギャラリー/東京都)
- 2011
- 個展(くらすわ/諏訪市)
- 2012
- 個展(五明荘/茅野市)
- 2014・2015
- 「ハワイボルケーノ国際美術展」(ボルケーノ・アート・センター/アメリカ)
- 2015
- 個展(アノニム・ギャラリー/茅野市)
- 2016
- 「在る表現―その文脈と諏訪 松澤宥・辰野登恵子・宮坂了作・根岸芳郎」(茅野市美術館/茅野市)
- 2019
- 「3331 ART FAIR 2019」(3331 Arts Chiyoda/東京都)
情報
Information
Event 2019/10/27 (日)
終了しました宮坂 了作ギャラリートーク
13:30~14:15
上田市立美術館
Event 2019/10/12 (土)
終了しました【イベント中止】[上田市立美術館] オープニング・ギャラリートーク
一般財団法人長野県文化振興事業団・長野県では、長野県内でも台風19号の影響が予想されることから、10月12日(土)午後1時30分より上田市立美術館会場にて開催を予定しておりました「シンビズム3 オープニング・ギャラリートーク」は中止とさせていただきます。
なお、シンビズム3展をはじめ同館の展覧会は通常どおり開催をいたします。
News 2019/09/20 (金) 更新
[東信会場]上田市立美術館と出展作家情報を更新しました。
What is your starting point? “ あなたの原点は何か?
学芸員の解説
それは、1972年、カリフォルニア芸術大学(CalArts)に留学した宮坂が、芸術家、アラン・カプローの最初の授業で受けた言葉だった。カプローは1950年代後半から70年代前半にかけて行われた芸術運動「ハプニング」を提唱。〝happen〟つまり事象の起こる偶発的かつ一過性な瞬間を作品化し、後の動向「イヴェント」や「パフォーマンス・アート」などに大きな影響を与えた。
自身の原点を問われた宮坂は自問する。長野県諏訪市の農家に生まれ、豊かな自然とさまざまな動物に囲まれて育った少年時代。やがて自らの原点が「農業」にあると思い至り、カプローのクラスで《A・ファイア・フェスティバル》(1972)を実施する。まず、CalArts敷地内の丘の斜面に縦30m、横10m、幅1.5m、深さ50cmの「A」の文字を掘り、そこにゴミを入れて燃やし、A文字焼きをする。焼き終えたら土を埋め肥料にして、花の種を蒔き、Aの形の花を咲かせ、その後、何もない大地に戻した。「A」はアメリカのAであり、アートのA、さらにはすべてのはじまりのAだという。焼畑農業の手法で大自然の循環を鮮やかに示したこの作品はカプローに称賛される。その後もコンセプチュアル・アーティストのハンス・ハーケのもとで、学校内を歩いた場所と時間を地図に記録し、そこで撮影した風景や人物の写真フィルムを感光、図像を消して記憶のみに残し、地図とフィルムの残骸をテーブルに置くといった作品《ハンス・ハーケの作品の作品》(1972)を制作している。
73年にニューヨークにあるクーパー・ユニオン・アート・スクールでの半年間の交換留学を経て、74年CalArtsを卒業し、帰国する。その後、80年に郷里へ戻った。
宮坂が地図を出発点にさまざまに展開する絵画を描きはじめたのは75年の《地図(始まり)》からである。高度に応じて色を塗りわける段彩図の色彩(深海は青、平野部は黄緑色、山地は茶色系統で、深くもしくは高くなるほど濃い色に彩色される)を用いたこれら一連の地図の絵画は、宮坂によると「アースワーク」を画面に落とし込んだものだという。つまり、それはキャンバスに描かれた大地であり、その本来の姿は観る者のイマジネーションのなかにだけ存在する。《風景(四つの点)》(1991)は郷里の御柱祭をテーマにしたもので、4つの点は左上から時計回りに水深6,000m以上、海抜0m、標高5,000m以上、平地をそれぞれ示している。鑑賞者にはぜひ、想像してほしい。現実には存在しない大地のあり方を。同じ諏訪地域出身で交流のあったコンセプチュアル・アーティストの松澤宥が本作に興味を示し、宮坂は勇気付けられたという。
宮坂の本質はコンセプチュアル・アートにあり、その絵画はイマジネーションを喚起する装置といえよう。それは、宮坂が渡米する前、日本大学芸術学部在学中に師事した前衛芸術家・高松次郎の作風に通じるように思われる。宮坂は71年に高松の主宰する塾の第1期生として1年間学び、彼のアシスタントとして作品制作にも携わった。「影」をモチーフに主体の不在を追求した絵画シリーズを手がけた高松からは、描かないことの表現、つまりマイナスの思考を学んだという。幅約4mの大作《地図(島)》(1992-93年)にはその思考が働いている。画面中央に小さな島がひとつあり、その周辺には波紋が広がっている。これらはあえて偶然性が生じるように腕の動きの赴くままに線を引き、線が重なってできた区画を、画面の中心部分を最も高い標高として順番に段彩図の法則で彩色したものである。作家の情動からではない、一定の法則性によって生まれた本作は、どこか、必然の美しさを放っている。マチエールは人為を消すかのように平らで、鮮やかな色彩はそれぞれの区画内を幾重にも塗り重ねているという。線が重なる部分の細かな彩色は面相筆よりもさらに細い筆で描かれた手仕事である。
この偶然性、いわば自然と対峙する根気のいる手作業は宮坂が農業に取り組んできたことと無関係ではない。帰郷して以来、宮坂は農業を生業としてきた。そして、それは彼にとって原点であった。近年手がける《植物文字》は、アルファベットや数字の形に小松菜や春菊などの種を植え、育て、文字の形に茂った葉のその形がわからなくなるほど成長したところで刈り取り食べるという作品である。それは「野菜を食べる」という当たり前の行為に輪郭線を与え、私たちにその行為の意味を改めて認識させる。大地とともに植物は育ち、人はそれを食し、生きていく。そして、去っていくという事実。やがて、すべてが元に戻っていくという循環。宮坂のアートは遥か彼方の形而上の存在ではなく、私たちの日常の〝happen〟に気付くきっかけを与える。
人はアートのみでは生きられない。と同時に、生活のみでも生きられない。おそらく、そのようにできている。生活者として培われた宮坂の指先から生まれる地図の絵画が、イマジネーションの自由ととともに、広大な海と大地の形となってどこまでも創造されていくように、私たちは日常のなかでどこまでもいける。それは、現代における、人とアートとの関係の自然な形に思われてならない。
自身の原点を問われた宮坂は自問する。長野県諏訪市の農家に生まれ、豊かな自然とさまざまな動物に囲まれて育った少年時代。やがて自らの原点が「農業」にあると思い至り、カプローのクラスで《A・ファイア・フェスティバル》(1972)を実施する。まず、CalArts敷地内の丘の斜面に縦30m、横10m、幅1.5m、深さ50cmの「A」の文字を掘り、そこにゴミを入れて燃やし、A文字焼きをする。焼き終えたら土を埋め肥料にして、花の種を蒔き、Aの形の花を咲かせ、その後、何もない大地に戻した。「A」はアメリカのAであり、アートのA、さらにはすべてのはじまりのAだという。焼畑農業の手法で大自然の循環を鮮やかに示したこの作品はカプローに称賛される。その後もコンセプチュアル・アーティストのハンス・ハーケのもとで、学校内を歩いた場所と時間を地図に記録し、そこで撮影した風景や人物の写真フィルムを感光、図像を消して記憶のみに残し、地図とフィルムの残骸をテーブルに置くといった作品《ハンス・ハーケの作品の作品》(1972)を制作している。
73年にニューヨークにあるクーパー・ユニオン・アート・スクールでの半年間の交換留学を経て、74年CalArtsを卒業し、帰国する。その後、80年に郷里へ戻った。
宮坂が地図を出発点にさまざまに展開する絵画を描きはじめたのは75年の《地図(始まり)》からである。高度に応じて色を塗りわける段彩図の色彩(深海は青、平野部は黄緑色、山地は茶色系統で、深くもしくは高くなるほど濃い色に彩色される)を用いたこれら一連の地図の絵画は、宮坂によると「アースワーク」を画面に落とし込んだものだという。つまり、それはキャンバスに描かれた大地であり、その本来の姿は観る者のイマジネーションのなかにだけ存在する。《風景(四つの点)》(1991)は郷里の御柱祭をテーマにしたもので、4つの点は左上から時計回りに水深6,000m以上、海抜0m、標高5,000m以上、平地をそれぞれ示している。鑑賞者にはぜひ、想像してほしい。現実には存在しない大地のあり方を。同じ諏訪地域出身で交流のあったコンセプチュアル・アーティストの松澤宥が本作に興味を示し、宮坂は勇気付けられたという。
宮坂の本質はコンセプチュアル・アートにあり、その絵画はイマジネーションを喚起する装置といえよう。それは、宮坂が渡米する前、日本大学芸術学部在学中に師事した前衛芸術家・高松次郎の作風に通じるように思われる。宮坂は71年に高松の主宰する塾の第1期生として1年間学び、彼のアシスタントとして作品制作にも携わった。「影」をモチーフに主体の不在を追求した絵画シリーズを手がけた高松からは、描かないことの表現、つまりマイナスの思考を学んだという。幅約4mの大作《地図(島)》(1992-93年)にはその思考が働いている。画面中央に小さな島がひとつあり、その周辺には波紋が広がっている。これらはあえて偶然性が生じるように腕の動きの赴くままに線を引き、線が重なってできた区画を、画面の中心部分を最も高い標高として順番に段彩図の法則で彩色したものである。作家の情動からではない、一定の法則性によって生まれた本作は、どこか、必然の美しさを放っている。マチエールは人為を消すかのように平らで、鮮やかな色彩はそれぞれの区画内を幾重にも塗り重ねているという。線が重なる部分の細かな彩色は面相筆よりもさらに細い筆で描かれた手仕事である。
この偶然性、いわば自然と対峙する根気のいる手作業は宮坂が農業に取り組んできたことと無関係ではない。帰郷して以来、宮坂は農業を生業としてきた。そして、それは彼にとって原点であった。近年手がける《植物文字》は、アルファベットや数字の形に小松菜や春菊などの種を植え、育て、文字の形に茂った葉のその形がわからなくなるほど成長したところで刈り取り食べるという作品である。それは「野菜を食べる」という当たり前の行為に輪郭線を与え、私たちにその行為の意味を改めて認識させる。大地とともに植物は育ち、人はそれを食し、生きていく。そして、去っていくという事実。やがて、すべてが元に戻っていくという循環。宮坂のアートは遥か彼方の形而上の存在ではなく、私たちの日常の〝happen〟に気付くきっかけを与える。
人はアートのみでは生きられない。と同時に、生活のみでも生きられない。おそらく、そのようにできている。生活者として培われた宮坂の指先から生まれる地図の絵画が、イマジネーションの自由ととともに、広大な海と大地の形となってどこまでも創造されていくように、私たちは日常のなかでどこまでもいける。それは、現代における、人とアートとの関係の自然な形に思われてならない。
由井 はる奈(軽井沢ニューアートミュージアム)
Exhibition Artists & Hall
Ueda City Art Museum
2019/10/12 - 2019/11/10
終了しました。
上田市立美術館
- 〒386-0025
長野県上田市天神3-15-15 サントミューゼ内 - [電話番号]0268-27-2300
- [開館時間]9:00~17:00
- [休館日]火曜休(祝日の場合は翌日)
- >会場の詳細を見る
- >Googleマップで場所を見る
出展作家
Warning: count(): Parameter must be an array or an object that implements Countable in /home/naganobunka/shinbism.jp/public_html/archive/3/wp/wp-content/themes/shinbism3_new/include_artist_detail.php on line 482