学芸員の解説
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作ることの問い
→ 天野 惣平について解説
辰野美術館
赤羽 義洋
天野惣平は大学で絵画を学び、版画にも馴染んだという。卒業してイタリアに遊学するが、帰国後数年を経て郷里の廃村集落に転居し、没するまで制作を続けた。再び制作を始めたその作品は、ブナ材を鉋で薄く削った皮膜のようなシートをカットして貼り込んだり、砂を撒いたりした画面構成のものや、偶然得た家具の一部を支持体にしたものだった。幾何学的な形態を木材の薄いシートを線状に裁断してコラージュした作品では描画線を、シート片がランダムに画面を覆うオールオーヴァーの作品ではシート片が縁取りされて陰影を扮装してもいる。明確なモチーフは無く、絵の具と筆のストロークに抗う彼の強い意志がそこにはある。市街地から遠く離れた奥地に制作の場を得るまで、彼のなかでどのように内的動機が生成したのだろうか。天野は身近で廉価な素材を使用することが多く、彼のイタリア滞在中は「アルテ・ポーヴェラ」の美術潮流は終息した頃だったが、作品を目にしていたのかどうか。スイスを訪れた際には、豊かな色彩を湛えた水彩画や線描、独自の造形思考で知られたクレーの作品に親しみを感じたという。
やがて、彫刻制作で汎用されるマニラ麻の繊維に目を向け、成形した発泡断熱材に銅版作品と合わせて貼り込み、意表をつく形と表情の作品が生み出された。色を選んで繊維を染料に浸して干す、一本一本を手に取って丸める、透明アクリルのパイプに詰める、あるいは細縄に撚る。それらが次のステップで枠の内側や壁に配列されたり、成形された断熱材の表面に巻きつけられて、美しい色相と階調を生む。それは、即物的でも偶然でもない。本人はただ手を動かすと言っていたが、秩序立て、時間をかけて制作されている。そこでは階層的にプロセスが積み上がり、目論見と手業に膨大な時間が重層した制作の推移を遡及すると、めまいすら覚える。
一方、毎年地元公営プールの管理業務に就いて糊口の資を得ながら、塩素剤を使用した銅板の浸蝕による銅版画制作の手法を見出す。ニードルで描画せずに塩素で銅板を浸蝕させ、時間を追って腐蝕を進めながら、小さなプレス機でその都度刷った1枚1枚が対称的な位置にレイアウトされたり、時間の流れを組み込むように配置されていて、ここでも時間の重層が作品のエレメントになっている。
立体作品に貼り込まれた銅版の作品は、発泡断熱材や発泡スチロールという軽量素材の表面を擬装し、鋼鉄のスプリングや大理石など既知の素材に対する私たちの認知や触覚を揺さぶる。また、ひと冬の時間をかけて、もはや粉末状にまでハサミで刻まれたマニラ麻も、意想外な形状の表面に貼り付いて異彩を際立たせている。
ほどなく都内での個展発表から、近くの廃校の一室でのインスタレーションを中心にした表現へと移る。冬期間の制作を経て、毎年同じ時期に同じ場所での展示は、彼自身の「私の時間の流れの中で 私の呼吸とともに」という言葉のとおり、生きている時間の表出をも感じさせるものだった。染め分けられたマニラ麻の美しいグラデーションさえ、そうした時間の相似として連続性を宿していた。「作品が教室の空間を変容させる」というのものではなく、形と背景、空間が一体になったそこは、毎年彼が誕生日を迎える日の前後に合わせて息づき、天野の生きた時間が同化する作品をめぐって、大勢の来場者との共有の場となった。
今回、住まいでアトリエだった古民家の奥の暗がりに学生時代の人物画がひっそりと佇んでいるのを目にした。天野が帰国した頃は、日本の美術界は絵画という既存の媒体に疑問を抱くも、再び絵画の新しいスタイルが模索された時代でもあった。彼は「筆で描く」ことに納得せず、いわば「描画方法を間接化した」平面作品へと向かった。ブナ材を薄く削ったシート片やマニラ麻、それに腐蝕銅版は、「随意」な手の動きによる筆触をひたすら抑制し、反映させない作品制作を手がけた天野には、魅力ある素材と技法であったにちがいない。それゆえ、帰郷後発表した作品はすべてタイトルは無く、「無題」。参加者がアイマスクをしてブロンズ彫刻に触れたあと、触覚のみで粘土の造形をするワークショップを指導したことがあったが、それさえ、視覚が誘導する「手の痕跡」を排除した表現のひとつと考えていたのだろう。随意な手の動きに抗い、素材の持ち味に手が寄り添い、触覚をも意識しながら制作した天野は、独自の表現を提示し、固有の境地を開いた。
やがて、彫刻制作で汎用されるマニラ麻の繊維に目を向け、成形した発泡断熱材に銅版作品と合わせて貼り込み、意表をつく形と表情の作品が生み出された。色を選んで繊維を染料に浸して干す、一本一本を手に取って丸める、透明アクリルのパイプに詰める、あるいは細縄に撚る。それらが次のステップで枠の内側や壁に配列されたり、成形された断熱材の表面に巻きつけられて、美しい色相と階調を生む。それは、即物的でも偶然でもない。本人はただ手を動かすと言っていたが、秩序立て、時間をかけて制作されている。そこでは階層的にプロセスが積み上がり、目論見と手業に膨大な時間が重層した制作の推移を遡及すると、めまいすら覚える。
一方、毎年地元公営プールの管理業務に就いて糊口の資を得ながら、塩素剤を使用した銅板の浸蝕による銅版画制作の手法を見出す。ニードルで描画せずに塩素で銅板を浸蝕させ、時間を追って腐蝕を進めながら、小さなプレス機でその都度刷った1枚1枚が対称的な位置にレイアウトされたり、時間の流れを組み込むように配置されていて、ここでも時間の重層が作品のエレメントになっている。
立体作品に貼り込まれた銅版の作品は、発泡断熱材や発泡スチロールという軽量素材の表面を擬装し、鋼鉄のスプリングや大理石など既知の素材に対する私たちの認知や触覚を揺さぶる。また、ひと冬の時間をかけて、もはや粉末状にまでハサミで刻まれたマニラ麻も、意想外な形状の表面に貼り付いて異彩を際立たせている。
ほどなく都内での個展発表から、近くの廃校の一室でのインスタレーションを中心にした表現へと移る。冬期間の制作を経て、毎年同じ時期に同じ場所での展示は、彼自身の「私の時間の流れの中で 私の呼吸とともに」という言葉のとおり、生きている時間の表出をも感じさせるものだった。染め分けられたマニラ麻の美しいグラデーションさえ、そうした時間の相似として連続性を宿していた。「作品が教室の空間を変容させる」というのものではなく、形と背景、空間が一体になったそこは、毎年彼が誕生日を迎える日の前後に合わせて息づき、天野の生きた時間が同化する作品をめぐって、大勢の来場者との共有の場となった。
今回、住まいでアトリエだった古民家の奥の暗がりに学生時代の人物画がひっそりと佇んでいるのを目にした。天野が帰国した頃は、日本の美術界は絵画という既存の媒体に疑問を抱くも、再び絵画の新しいスタイルが模索された時代でもあった。彼は「筆で描く」ことに納得せず、いわば「描画方法を間接化した」平面作品へと向かった。ブナ材を薄く削ったシート片やマニラ麻、それに腐蝕銅版は、「随意」な手の動きによる筆触をひたすら抑制し、反映させない作品制作を手がけた天野には、魅力ある素材と技法であったにちがいない。それゆえ、帰郷後発表した作品はすべてタイトルは無く、「無題」。参加者がアイマスクをしてブロンズ彫刻に触れたあと、触覚のみで粘土の造形をするワークショップを指導したことがあったが、それさえ、視覚が誘導する「手の痕跡」を排除した表現のひとつと考えていたのだろう。随意な手の動きに抗い、素材の持ち味に手が寄り添い、触覚をも意識しながら制作した天野は、独自の表現を提示し、固有の境地を開いた。