学芸員の解説
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眞板雅文 ―記憶につながる作品―
→ 眞板 雅文について解説
木曽町教育委員会
伊藤 幸穂
眞板雅文は1970年代にモノクロ写真と物質との組み合わせによるインスタレーションを発表し、同時代の注目すべき作家として日本国内のみならず海外でも評価を得た国際派の現代美術家である。一方、1980年代から2009年に急逝するまで海浜や森、植物や水といった「自然」や「環境」と自分と周囲のありようにこだわり続ける探索者であった。作品のヒントを日々を暮らしのなかに探りながら、あるときは巨大な鉄や石を組み合わせ精密な計画のもとに設置したモニュメントに、あるときは布やロープなど身近な素材を使用した作品に、独特の世界観を反映させた。
信州とのつながりも長期にわたった。94年に八ヶ岳の麓の大きな古民家を改修し、亡くなるまでの13年間、拠点のひとつとした。その間、「アトリエ展」も開催するなど周囲の自然や地域の風土にも目を向けた作品を標榜していたようだ。この事実は意外に知られていないのではないだろうか。
眞板は中国東北部(旧満州奉天省)に終戦の9ヵ月前に生まれた。3歳で家族とともに引き揚げ横須賀で育った。高校時代から美術に取り組み、大学では学ばず21歳ではじめての個展を開催している。また26歳で第6回国際青年美術展大賞を受賞し、2年間のフランスでの滞在と制作機会を獲得した。当時発表した連作「状況」シリーズでは、大型の写真パネルと物体、照明器具などを組み合わせた。小さなオブジェと写真をセットにした「資料化」と題する展覧会など、いわゆる写真の表現ではなく、物質と人間の関係性を探る作風だった。同世代の若手作家が「もの派」と称されたときには、眞板もそこに関連付けられる作家のひとりとして、作家の交流のなかで切磋琢磨したという。その後の眞板は、さまざまな素材を自らの手で扱い、周囲の環境や風土に合わせて作品を制作するスタイルへとスライドしていった。86年、ヴェネチア・ビエンナーレに2度目の出品をした際には鉄による大きなドーム型の上部に意匠がある彫刻を設置し、そのなかに水槽を置いた《樹々の精》を発表し、国内に移設された。世界的な彫刻家のイサム・ノグチと知遇を得たのもこのヴェネチアの展覧会場だった。
以後、公共空間での仕事が増えてゆき、公園や地下鉄の駅付近などに設置された。たとえば巨石の胴部分にステンレス部分を滑り込ませるような手法など、鮮やかであるが過剰ではなく、スマートな異素材の組み合わせに不思議とすっと心が休まる。
本展出品作品を見てみよう。《水鏡》は89年制作のインスタレーション作品である。20個ほどの円形の鉄で作られた大小さまざまの器に水が張られており、その円中には植物のような情景が鉄の棒を使い施されている。地面にランダムに置かれたそれらの形の面白さ、楽しさに、幼い頃の水たまりで戯れた記憶と眼前の視覚体験とがオーバーラップする。今回、水のある中庭に設置される予定で、まさに安曇野の風や空気が要素に加わり心に残る展示となるだろう。
会場となる旧髙橋家住宅主屋では多様な作品を展示する予定だ。綱で作られた直径180㎝ほどの円環にたくさんの紐や布が巻かれた《春:彩りの譜》を座敷のうえに設置し、台座に載った円環の中心に和紙の下から光を照らす。また、縄や紐を使った丸や三角などの形をした小さなコラージュ作品は、家屋の梁や床の間に展示する。富士見町のアトリエでも小品が梁にかけられているのを確認している。これらの布や紐を使った作品群は呪術的な雰囲気で、清々しい石や鉄の作品と異なり内観を感じる作品だ。とくに焦茶色の網と布で縛りあげられた塊は得体の知れないものがある。眞板は長年、京都や高野山などの寺社を巡り日本の古典的な美意識を吸収していた。作家の無意識のなかに残る最古の記憶を閉じ込めたのだろうか。97年以降に制作した竹と水などを使った大型のインスタレーション作品は、とくに人びとの記憶と記録に残っている。本展では野外の小さな庭に竹をモチーフにしたブロンズ作品を置く予定だ。主屋は国の登録有形文化財になっており、近世の茅葺き民家を生かした芸術空間は見応えがあるだろう。
これらの展示は作家と交流のあった学芸員を中心に、シンビズムメンバーが連携し企画している。また本展出品作家である画家の塚田裕は、眞板の制作アシスタントを務め、その人となりを知るひとりである。
筆者は信州に住む前の93年から4年間、東京で学生時代を過ごしたが、その頃は作品には少しとっつきにくい印象があり、よく知らないままで実にもったいなかったと思う。そのような記憶も含めて、今回の作品へのアプローチにつながっている。
眞板の彫刻はいま、長野市内や美ヶ原高原美術館、東京や岐阜、富山など全国各地にあるが、そのほかにも多様な作品があることを知れば作家への理解がさらに進むはずだ。
信州とのつながりも長期にわたった。94年に八ヶ岳の麓の大きな古民家を改修し、亡くなるまでの13年間、拠点のひとつとした。その間、「アトリエ展」も開催するなど周囲の自然や地域の風土にも目を向けた作品を標榜していたようだ。この事実は意外に知られていないのではないだろうか。
眞板は中国東北部(旧満州奉天省)に終戦の9ヵ月前に生まれた。3歳で家族とともに引き揚げ横須賀で育った。高校時代から美術に取り組み、大学では学ばず21歳ではじめての個展を開催している。また26歳で第6回国際青年美術展大賞を受賞し、2年間のフランスでの滞在と制作機会を獲得した。当時発表した連作「状況」シリーズでは、大型の写真パネルと物体、照明器具などを組み合わせた。小さなオブジェと写真をセットにした「資料化」と題する展覧会など、いわゆる写真の表現ではなく、物質と人間の関係性を探る作風だった。同世代の若手作家が「もの派」と称されたときには、眞板もそこに関連付けられる作家のひとりとして、作家の交流のなかで切磋琢磨したという。その後の眞板は、さまざまな素材を自らの手で扱い、周囲の環境や風土に合わせて作品を制作するスタイルへとスライドしていった。86年、ヴェネチア・ビエンナーレに2度目の出品をした際には鉄による大きなドーム型の上部に意匠がある彫刻を設置し、そのなかに水槽を置いた《樹々の精》を発表し、国内に移設された。世界的な彫刻家のイサム・ノグチと知遇を得たのもこのヴェネチアの展覧会場だった。
以後、公共空間での仕事が増えてゆき、公園や地下鉄の駅付近などに設置された。たとえば巨石の胴部分にステンレス部分を滑り込ませるような手法など、鮮やかであるが過剰ではなく、スマートな異素材の組み合わせに不思議とすっと心が休まる。
本展出品作品を見てみよう。《水鏡》は89年制作のインスタレーション作品である。20個ほどの円形の鉄で作られた大小さまざまの器に水が張られており、その円中には植物のような情景が鉄の棒を使い施されている。地面にランダムに置かれたそれらの形の面白さ、楽しさに、幼い頃の水たまりで戯れた記憶と眼前の視覚体験とがオーバーラップする。今回、水のある中庭に設置される予定で、まさに安曇野の風や空気が要素に加わり心に残る展示となるだろう。
会場となる旧髙橋家住宅主屋では多様な作品を展示する予定だ。綱で作られた直径180㎝ほどの円環にたくさんの紐や布が巻かれた《春:彩りの譜》を座敷のうえに設置し、台座に載った円環の中心に和紙の下から光を照らす。また、縄や紐を使った丸や三角などの形をした小さなコラージュ作品は、家屋の梁や床の間に展示する。富士見町のアトリエでも小品が梁にかけられているのを確認している。これらの布や紐を使った作品群は呪術的な雰囲気で、清々しい石や鉄の作品と異なり内観を感じる作品だ。とくに焦茶色の網と布で縛りあげられた塊は得体の知れないものがある。眞板は長年、京都や高野山などの寺社を巡り日本の古典的な美意識を吸収していた。作家の無意識のなかに残る最古の記憶を閉じ込めたのだろうか。97年以降に制作した竹と水などを使った大型のインスタレーション作品は、とくに人びとの記憶と記録に残っている。本展では野外の小さな庭に竹をモチーフにしたブロンズ作品を置く予定だ。主屋は国の登録有形文化財になっており、近世の茅葺き民家を生かした芸術空間は見応えがあるだろう。
これらの展示は作家と交流のあった学芸員を中心に、シンビズムメンバーが連携し企画している。また本展出品作家である画家の塚田裕は、眞板の制作アシスタントを務め、その人となりを知るひとりである。
筆者は信州に住む前の93年から4年間、東京で学生時代を過ごしたが、その頃は作品には少しとっつきにくい印象があり、よく知らないままで実にもったいなかったと思う。そのような記憶も含めて、今回の作品へのアプローチにつながっている。
眞板の彫刻はいま、長野市内や美ヶ原高原美術館、東京や岐阜、富山など全国各地にあるが、そのほかにも多様な作品があることを知れば作家への理解がさらに進むはずだ。