学芸員の解説
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彫刻が存在するということ
→ 丸山 雅秋について解説
小海町高原美術館
中嶋 実
ブロンズの塊がそこにある。大きくはないその塊は鈍く光を反射してそれぞれの面をみせている。すぐに何かに捕らわれたように視線をはずすことができなくなる。アルカイックともいえる全体像が見えてくる。一見、幾何学的形態に見えたその塊を構成しているのは、内側から発せられているものを受け止め、緊張を湛えた有機的な膨らみを持つ面だ。それぞれの面はわずかに傾き、浮かび、重力に抗うようにその塊を構成している。そして面と面がつくる線は静かに全体を定義する。上部には掘られたのではなく、そこにあったかのような溝がある。溝の内側と外側の関係が生まれ、塊を取り囲む空間との新たな関係が生まれる。表面は複雑な様相をみせる。傷、色の変化、凹凸、手の痕跡、時間が封じ込められているかのようだ。その彫刻作品(p28)は、丸山雅秋のアトリエにあった。
丸山は1952年、長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)に生まれ、東京造形大学彫刻科で佐藤忠良に師事した。佐藤は「いい形には作用と反作用が働いている。」※1といっている。彫刻が10の力で地を押すと、地が10の力で押し返すこと、それが、彫刻が「立つ」ことであるという丸山の理解につながる。さらに、「作品が表す基本的な力の軸や方向に対して、どこかにそれに反したり違ったりする軸や方向が見られると、その作品は微妙な均衡を保って美しく感じられる。」※1という。この微妙な均衡は丸山の作品にもみられ、佐藤との表現の違いを超えたところで本質的な共通点をみつけることができる。卒業後はイタリア国立ミラノ・ブレラ美術アカデミー彫刻科で4年間学んでいる。在学中よりミラノでグループ展に出品、卒業後、イタリアの市立美術館、ドイツの市立ギャラリーで個展を開催、その後、ドイツ・シュツットガルトで8年を過ごし、同国内で数々の展覧会に出品している。イルムトラウト・シャールシュミット=リヒター(キュレーター)は「日本の文化は西洋的視点からすれば、まったく異質で、そのプライオリティーはまったく別種のものである。醸し出される雰囲気や情感、さらにまた、形態や表面の調和、これらへの研ぎ澄まされた感受性にその特徴を見ることができるが、そこには諸力の緊張関係から生まれるバランスが保たれている。それも、このバランスは精神的なものの表現にさえなるのである。これこそ、現代でも変わらない東アジアの、そして日本の芸術の本質だろう。」※2と、丸山がヨーロッパ芸術に影響を受けながらも日本の芸術の本質を追求している点を指摘している。丸山はイタリアに渡った理由を、いままでの表現を破壊し、自分の表現を探すためというが、壊すことと作ることは同時であるという自覚からもわかるように、東洋と西洋の文化の受容を対立させるのではなく止揚した先で作品制作を行う態度がみて取れる。
丸山は留学したイタリアの大学の卒論で、能を取りあげている。イタリアに渡り日本の文化を見直す必要に駆られたこともきっかけになったようだ。そして本展に寄せたコメントで、突き詰められた表現と舞台構成が空間を鮮烈に打ち出し、それは彫刻の表現方法に繋がることに言及している。25年以上前になろうか、中尊寺白山神社能楽殿で行われた中尊寺薪能の記憶が蘇る。暑さが和らぎ夕色に染まりつつある野外能楽堂で能「白田村」を観た。野外能楽堂は初期の形態で、自然と一体となった空間構成となる。風が吹き、葉音が聞こえ、草木が匂う。能が演ぜられる「時」と「場所」は、1回たりとも同じ状況ではないのである。削ぎ落とされた最小限ともいえる所作で舞う役者が現れるとその場の空気が一変し緊張がはしる。篝火が焚かれると新たな幽玄の世界が展開する。役者と鼓や笛の音、夕闇と光、自然と観者が渾然一体となる。その体験は時を経ても鮮明さを失わない強度を持っていた。能は「花」と呼ばれる美しさを表す。この花を表すのに欠くことのできない基礎となるものが「わざ」(態)の稽古である。稽古により真の花を持つことができたシテ(主役)になると舞台で何もしなくても花を表すことができるといわれる。まさに丸山が探求している姿勢はこの稽古であり、彫刻は花であるといえるかもしれない。丸山の作品に対峙したときの感覚が、この能の体験に結びついていることに気付く。
丸山は安曇野の高い天井のアトリエで石膏型を制作している。手で石膏を盛り、削る。白い塊がいくつも置かれている。丸山は、アトリエのスケールが制作に影響するという。作品が大きく感じられる一因でもある。完成した石膏型は丸山が過ごしたイタリア、ミラノのブロンズ鋳造所に送られ、作品のクオリティが生み出される。鋳造されたブロンズ像の表面は丹念に仕上げられ、丸山の希望に沿って酸を使い職人と相談しながら色付けを行う。そして日本に送られた作品が本展に出品される。作品が空間そして観者と新たな関係を築き、大きなボリュームを持つ展示空間にどのように存在し、共生し、場を創造するのか楽しみである。
丸山は1952年、長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)に生まれ、東京造形大学彫刻科で佐藤忠良に師事した。佐藤は「いい形には作用と反作用が働いている。」※1といっている。彫刻が10の力で地を押すと、地が10の力で押し返すこと、それが、彫刻が「立つ」ことであるという丸山の理解につながる。さらに、「作品が表す基本的な力の軸や方向に対して、どこかにそれに反したり違ったりする軸や方向が見られると、その作品は微妙な均衡を保って美しく感じられる。」※1という。この微妙な均衡は丸山の作品にもみられ、佐藤との表現の違いを超えたところで本質的な共通点をみつけることができる。卒業後はイタリア国立ミラノ・ブレラ美術アカデミー彫刻科で4年間学んでいる。在学中よりミラノでグループ展に出品、卒業後、イタリアの市立美術館、ドイツの市立ギャラリーで個展を開催、その後、ドイツ・シュツットガルトで8年を過ごし、同国内で数々の展覧会に出品している。イルムトラウト・シャールシュミット=リヒター(キュレーター)は「日本の文化は西洋的視点からすれば、まったく異質で、そのプライオリティーはまったく別種のものである。醸し出される雰囲気や情感、さらにまた、形態や表面の調和、これらへの研ぎ澄まされた感受性にその特徴を見ることができるが、そこには諸力の緊張関係から生まれるバランスが保たれている。それも、このバランスは精神的なものの表現にさえなるのである。これこそ、現代でも変わらない東アジアの、そして日本の芸術の本質だろう。」※2と、丸山がヨーロッパ芸術に影響を受けながらも日本の芸術の本質を追求している点を指摘している。丸山はイタリアに渡った理由を、いままでの表現を破壊し、自分の表現を探すためというが、壊すことと作ることは同時であるという自覚からもわかるように、東洋と西洋の文化の受容を対立させるのではなく止揚した先で作品制作を行う態度がみて取れる。
丸山は留学したイタリアの大学の卒論で、能を取りあげている。イタリアに渡り日本の文化を見直す必要に駆られたこともきっかけになったようだ。そして本展に寄せたコメントで、突き詰められた表現と舞台構成が空間を鮮烈に打ち出し、それは彫刻の表現方法に繋がることに言及している。25年以上前になろうか、中尊寺白山神社能楽殿で行われた中尊寺薪能の記憶が蘇る。暑さが和らぎ夕色に染まりつつある野外能楽堂で能「白田村」を観た。野外能楽堂は初期の形態で、自然と一体となった空間構成となる。風が吹き、葉音が聞こえ、草木が匂う。能が演ぜられる「時」と「場所」は、1回たりとも同じ状況ではないのである。削ぎ落とされた最小限ともいえる所作で舞う役者が現れるとその場の空気が一変し緊張がはしる。篝火が焚かれると新たな幽玄の世界が展開する。役者と鼓や笛の音、夕闇と光、自然と観者が渾然一体となる。その体験は時を経ても鮮明さを失わない強度を持っていた。能は「花」と呼ばれる美しさを表す。この花を表すのに欠くことのできない基礎となるものが「わざ」(態)の稽古である。稽古により真の花を持つことができたシテ(主役)になると舞台で何もしなくても花を表すことができるといわれる。まさに丸山が探求している姿勢はこの稽古であり、彫刻は花であるといえるかもしれない。丸山の作品に対峙したときの感覚が、この能の体験に結びついていることに気付く。
丸山は安曇野の高い天井のアトリエで石膏型を制作している。手で石膏を盛り、削る。白い塊がいくつも置かれている。丸山は、アトリエのスケールが制作に影響するという。作品が大きく感じられる一因でもある。完成した石膏型は丸山が過ごしたイタリア、ミラノのブロンズ鋳造所に送られ、作品のクオリティが生み出される。鋳造されたブロンズ像の表面は丹念に仕上げられ、丸山の希望に沿って酸を使い職人と相談しながら色付けを行う。そして日本に送られた作品が本展に出品される。作品が空間そして観者と新たな関係を築き、大きなボリュームを持つ展示空間にどのように存在し、共生し、場を創造するのか楽しみである。
※1 奥田史郎、道家暢子編『彫刻の《職人》佐藤忠良 写実の人生を語る』(草の根出版会、2003年)
※2 図録『丸山雅秋 存在=関係』(2003年)
※2 図録『丸山雅秋 存在=関係』(2003年)