学芸員の解説
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信州に関わる14人のメッセージ
松本市教育委員会
大竹 永明
今年で「シンビズム」は3回目になる。2017年からはじまったこの展覧会は、2020年の4回で一応ひと区切りとなる。
「シンビズム」は長野県文化振興事業団と長野県が主催する事業で、〝シンビズム〟という名称は、この事業のために集まったわれわれ県内の学芸員によるワーキンググループが命名した造語である。〝信州の美術〟そして〝新しい〟〝真の〟〝親しい〟といった複合的な意味が込められている。長野県ゆかりの作家を取りあげる展覧会である。
過去の2回の展覧会では、ワーキンググループに参加した学芸員がそれぞれひとりずつ作家を推薦して出品作家を選定した。若い学芸員が多いこともあって推薦された作家は、現代美術系の若手作家や新人作家が占めた。
長野県は多くのすぐれた現代美術作家を輩出している。すでに世界的に活躍する草間彌生をはじめ、辰野登恵子や戸谷成雄といった魅力的な長野県出身の作家が日本の現代美術界を牽引してきた感がある。また、松澤宥といった日本のコンセプチュアル・アートの先駆者もいる。
信州は自然が美しいことから、古くから多くの画家が訪れている。いきおい穏健な写実的な風景画が多いが、戦後になるとそれとは裏返したかのような前衛的な作家が登場してくる。戦後の民主化により人びとの意識が解放され、元来が理屈っぽい議論好きの長野県人は、自然をモチーフにそれぞれいままでにない造形回路を生み出して独自の表現を創出していったということだろうか。
第1・2回の展覧会では各学芸員の意思を尊重して出品作家を選定したが、一応の総括となる最終の第4回へ向けて、こうした長野県の現代美術の重厚さや奥深さを伝えるには、どういった作家を選定すればいいかワーキンググループ内で協議が繰り返された。
そこで、第3・4回の展覧会では物故作家まで範囲を広げて長野県の現代美術を代表する作家を取りあげ、4回の展覧会を通じていまを生きる若手作家から、日本の現代美術史に名を残す作家までをつなぐことによって、長野県の近代美術史を通覧しようと試みた。
そうしたストーリーのもと、2019年と2020年の展覧会のコンセプトを次のように設定した。
シンビズム3(2019年展)
2017、2018年の過去2回は、長野県に関わる現代美術の若手、新人作家をワーキンググループの各学芸員が推薦したが、2019年では総括となる2020年につなげるため、個々の学芸員による推薦だけではなく、ワーキンググループ内での協議を経て同意された作家を展示する。作家の選定に際しては2020年と同一の方向性のもとに選定を行い、長野県の戦後の現代美術史をたどるうえで必要な作家を選定する。
シンビズム4(2020年展)
戦後日本の現代美術を語るうえで、長野県出身の作家はその主要な一角を占めている。本展では、こうした内外に誇るべき信州の現代美術作家を軸に、その後継者として現在活動し、いまだ広く知られていない作家たちを展示することによって、信州の現代美術界を展望する。本展を重要な機会としてとらえ、学芸員により各作家の特性や現代美術における位置などを明確にしていくことによって、今後の日本の現代美術史の体系化の一助とするもの。
シンビズム1~4を「起承転結」からとらえるとすれば、シンビズム3は〝転〟といえる。
われわれシンビズム・ワーキンググループに参加した学芸員たちは、年齢層も幅広く、そのため学芸業務の経験年数が異なる。歳を重ねた者は過去に多くの作家との関わりがあり、一方で若い者は新しい時代を切り拓く感性を持っている。シンビズム3の作家選定に際しては、そうした仲間が取りあげる作家について協議し、たがいの意見を聞き合う場を設けることができた。そうすることによって、われわれは次の段階にいくことができたように思う。
では、シンビズム3で取りあげた作家についてふれたい。
まず、安曇野髙橋節郎記念美術館で展示する作家たちは次の3人。
晩年は富士見町のアトリエを拠点に制作した眞板雅文は、自然石や竹などといった自然の素材と鉄などの人工素材を組み合わせたスケールの大きなインスタレーションや彫刻を制作した。生涯を通じてアトリエを何度か移っても常に茅葺きの家を仕事場にしたというこの作家は、自然に人間がどう関わっていくべきかを考えていたように思う。
2015年に松本市に移住してきた大曽根俊輔は、大学で木工を学び、仏像の修理に携わってきた。乾漆で動物をモチーフにした彫刻作品を制作している。具象彫刻のリアルさが、逆に日常の生活空間に溶け込むのが不思議である。
信濃町にアトリエを持つ米林雄一は、宇宙の存在をテーマに、そこから発想するイメージを円や楕円、水平や垂直といった幾何学的な要素によって造形し、スケールの大きな表現を試みている。宇宙への関心から、JAXA(宇宙航空研究開発機構)との共同研究による宇宙ステーション内での粘土造形〝宇宙モデリング〟にも関わった。
上田市立美術館で展示するのは、次の4人の作家たち。
諏訪市出身の宮坂了作は、高松次郎塾で学んだ後にアメリカに渡り、「ハプニング」の表現を学んだ。1974年に帰国後は農業をしながら絵画を制作している。地図をモチーフに等高線ごとに表示される色彩の分布によって画面構成した作品を継続して制作している。
安曇野市(旧豊科町)出身の丸山雅秋は、はじめ佐藤忠良に師事し具象彫刻を制作していたが、18年間におよぶイタリア、ドイツでの滞在によって逆に日本人を自覚するようになり、作品は抽象に移り、単純な形体、温かみのある軟らかい材質感や、マチエールといった少ない造形言語で表現している。
上田市(旧中塩田村)出身の甲田洋二は、肉親や自己、自分の住む環境など極めて私的な題材をモチーフにして、それをまるでもうひとりの自分がみつめるように客観的に描いている。
1996年に阿智村に移住した山内孝一は、竹やススキや木、石といった自然の素材を用いたインスタレーションを制作しているほか、絵画を制作している。また、阿知川や天竜川の河原でワークショップも行っている。
一本木公園展示館/中野小学校旧校舎・信州中野銅石版画ミュージアムで展示するのは、次の3人の作家たち。
千曲市出身の柿崎順一は、花や木、果実、土を素材として大地や風景にインスタレーションをするランドアート、パフォーマンス、舞台美術が表現の舞台である。この作家は、花が枯れて朽ちていくまでを、インスタレーションのなかで展示する。花の滅びゆく姿は甘美で官能的でさえある。
軽井沢町にスタジオを持つ増田洋美は、ガラスを素材としたインスタレーションで知られた作家である。そのガラスたちは、どのような空間に置かれようとも、みごとに風景のなかに溶け込んでしまう。
北海道出身で飯綱町に住む榊原澄人は、身の周りの日常的な題材をテーマに、アニメーションによって反復やループ効果といった技法を使い、時の流れを語っていく。最近では実写による映像作品も制作している。
最後に、茅野市美術館で展示するのは、次の4人の作家たち。
諏訪市出身で現在は富士見町在住の塚田裕は、「森の生活~つながっているもの」をテーマに、森のなかで感じるイメージをキャンバスに定着させようとする。ときにキャンバスに落ちた枯葉がそのまま貼り付いていたりするが、常に変転するイメージの一瞬を画面に置き換えようとしている。
駒ヶ根市(旧赤穂村)出身の吉江新二は、東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)では日本画を学び、生涯を高校の美術教師として過ごした。自由美術と主体美術を舞台に、単調な色彩のなかにときに塗られた絵具を拭き取ったりしながら丹念に諧調やマチエールを作って、西洋の抽象にない日本的で詩的な抽象絵画を制作している。
高遠町出身の天野惣平は、武蔵野美術大学を卒業してイタリアに渡り学んだ後、1983年に故郷の廃村となった芝平(しびら)地区に移住し、制作した。2005年から廃校となった校舎で個展を開催し、亡くなる前年まで行っている。麻を素材とした立体造形や銅版画がこの作家の表現手法である。
飯田市出身の前沢知子は、ワークショップの参加者による成果物をトリミングして、絵画作品として展示する。不特定多数の体験成果を加工して作品にする「組替え絵画」の手法を用いている。
出展作家のうち最も若いのは、39歳の榊原澄人で、40代の作家は大曽根俊輔、前沢知子、柿崎順一の3人、50代は塚田裕、山内孝一の2人、60代は宮坂了作、丸山雅秋の2人、70代は米林雄一、増田洋美の2人、80代は甲田洋二のひとりで、残る眞板雅文、吉江新二、天野惣平の3人は物故している。
ほとんどの作家が、それぞれ自己の表現手法や造形回路の方向性を見出し、あるいは確立した境地に達しようとしているといえようか。
今度は表現手法の視点からみてみようと思う。
14人の作家のなかで、インスタレーションを主たる表現手法とする作家は、眞板雅文、増田洋美、山内孝一、柿崎順一、前沢知子の5人あたりだろう。このなかで、自然石や竹、木、ススキ、花など自然の素材を使うのは、眞板雅文、山内孝一、柿崎順一の3人で、増田洋美はガラス、前沢知子はワークショップの参加者の成果物という変わった素材を用いている。
ほかにも天野惣平、塚田裕の2人もインスタレーションによる作品を制作している。天野惣平は麻を使い、塚田裕は眞板雅文のアシスタントをしていたこともあって、わら、萱、木といった素材を使っている。
平面(絵画)を主に制作するのは、吉江新二、甲田洋二、宮坂了作、塚田裕の4人である。
彫刻を主に制作するのは、米林雄一、丸山雅秋、大曽根俊輔の3人で、天野惣平は前述したように麻を素材とする立体造形を制作しており、彫刻のジャンルに含めていいかもしれない。
そして、アニメーションをおもに表現するのが榊原澄人であり、このなかでは彼しかいない。
今回、本稿を書くに当たって、14人の作家の資料を集め、彼らの造形思考に近付こうと試みた。展覧会開催前のこともあり、すべての作家について実際の作品を眼にしたわけではない。的を得ない点がどこかにあるかもしれないが、私なりに感じたことを記しておく。
自然と人間との関わりを主題に、作家がそれぞれの立ち位置で表現しているのが、眞板雅文、山内孝一、塚田裕、天野惣平だろうか。眞板雅文が常に茅葺きの民家をアトリエ(仕事場)としたように、天野惣平が高遠町の廃村に移り住み、廃校となった校舎で展覧会を開催し続けたように、山内孝一が阿智村に移住し川原の石やススキの茎を素材にするように、塚田裕が富士見町の森のなかで制作するように、彼らは自然に触発されて作品のイメージが生まれる。信州で制作をしようと思うのは当然かもしれない。
そして、自然界におけるすべての生き物は皆、死に至り、土に還る。自然界の荘厳な循環(輪廻)の世界をわれわれにみせてくれるのが柿崎順一である。
宇宙も自然界の広大な一部であるから、米林雄一の造形思考もまた自然と人間との関わりでとらえられるかもしれない。この作家は、われわれが知覚することの難しい宇宙という無限の空間を感じさせてくれる。
自然と人間との関わりからいえば宮坂了作はまた別の意識を持っている。絵画には自然主義的写実の長い歴史があるが、この作家はこうした既成の概念を解体し、一定の法則性によって造形しようとする。
乾漆でリアルな動物彫刻を制作する大曽根俊輔は、外界の自然を室内空間に闖入させることで、われわれを楽しませてくれる。その動物たちは、どこか人格を持った人間のように見えてくるから不思議だ。
自然のなかでも、都市空間のなかでも、増田洋美のガラスは違和感がなく溶け込んでいく。ガラスという人工物でありながら、あらゆる環境に順応するこの表現は、人間と外界との共存、調和という作家の願いが込められているのだろうか。
自然や現代社会との関わりというより、より自己の内面に立って表現するのが甲田洋二である。生きていくうえで関わる他者や事象に対して抱く、愛憎半ばする複雑な意識や感情を、理性をもって正直に淡々と表現しようとするこの作家の制作態度は、稀有なものだと思う。
アニメーションのなかで、人と人とが織りなす時間の流れによる暗示的なドラマを見せてくれるのが榊原澄人である。この作家の作る画面には、複数の人物が至るところに出現して交錯し、意図しない因果関係を生み出し、それによって社会が形成され、その時間の蓄積により歴史がつくられていくことを私たちに教えてくれる。
精選した少ない言葉で、少ない言葉だからこそ、鮮烈な印象を与えるのが、吉江新二や丸山雅秋の仕事のように思われる。俳句や短歌、茶道や能狂言のように、余計なものをそぎ落とし純度の高い部分に集中することで、美の本質に迫ろうとする感覚が日本にはある。ふたりの芸術はそうした感覚に近い気がする。
これまでの作家とはまったく別の視点で制作しているのは前沢知子ではないかと思われる。制作の素材をワークショップ参加者の成果物に求め、ワークショップから作品制作、展示までを一体の表現として位置付けたことは、美術における表現の可動域を広げたかもしれない。また、幼児教育までを守備範囲とするこの作家にとって、美術表現における記名性についても問題を投げかけている。
人は誰しも自分の人生しか生きられない。そして時代の影響や、めぐりあう人の影響を受けながら自己を形成していく。本展の14人の作家たちもまた、それぞれの人生の旅のなかで、伝えたい何かがあって作品を作り、メッセージを発信している。
展示室を訪れる皆さんは、14のそれぞれのメッセージにめぐりあい、現代社会を生きる旅路の参考にしていただければと願っている。
「シンビズム」は長野県文化振興事業団と長野県が主催する事業で、〝シンビズム〟という名称は、この事業のために集まったわれわれ県内の学芸員によるワーキンググループが命名した造語である。〝信州の美術〟そして〝新しい〟〝真の〟〝親しい〟といった複合的な意味が込められている。長野県ゆかりの作家を取りあげる展覧会である。
過去の2回の展覧会では、ワーキンググループに参加した学芸員がそれぞれひとりずつ作家を推薦して出品作家を選定した。若い学芸員が多いこともあって推薦された作家は、現代美術系の若手作家や新人作家が占めた。
長野県は多くのすぐれた現代美術作家を輩出している。すでに世界的に活躍する草間彌生をはじめ、辰野登恵子や戸谷成雄といった魅力的な長野県出身の作家が日本の現代美術界を牽引してきた感がある。また、松澤宥といった日本のコンセプチュアル・アートの先駆者もいる。
信州は自然が美しいことから、古くから多くの画家が訪れている。いきおい穏健な写実的な風景画が多いが、戦後になるとそれとは裏返したかのような前衛的な作家が登場してくる。戦後の民主化により人びとの意識が解放され、元来が理屈っぽい議論好きの長野県人は、自然をモチーフにそれぞれいままでにない造形回路を生み出して独自の表現を創出していったということだろうか。
第1・2回の展覧会では各学芸員の意思を尊重して出品作家を選定したが、一応の総括となる最終の第4回へ向けて、こうした長野県の現代美術の重厚さや奥深さを伝えるには、どういった作家を選定すればいいかワーキンググループ内で協議が繰り返された。
そこで、第3・4回の展覧会では物故作家まで範囲を広げて長野県の現代美術を代表する作家を取りあげ、4回の展覧会を通じていまを生きる若手作家から、日本の現代美術史に名を残す作家までをつなぐことによって、長野県の近代美術史を通覧しようと試みた。
そうしたストーリーのもと、2019年と2020年の展覧会のコンセプトを次のように設定した。
シンビズム3(2019年展)
2017、2018年の過去2回は、長野県に関わる現代美術の若手、新人作家をワーキンググループの各学芸員が推薦したが、2019年では総括となる2020年につなげるため、個々の学芸員による推薦だけではなく、ワーキンググループ内での協議を経て同意された作家を展示する。作家の選定に際しては2020年と同一の方向性のもとに選定を行い、長野県の戦後の現代美術史をたどるうえで必要な作家を選定する。
シンビズム4(2020年展)
戦後日本の現代美術を語るうえで、長野県出身の作家はその主要な一角を占めている。本展では、こうした内外に誇るべき信州の現代美術作家を軸に、その後継者として現在活動し、いまだ広く知られていない作家たちを展示することによって、信州の現代美術界を展望する。本展を重要な機会としてとらえ、学芸員により各作家の特性や現代美術における位置などを明確にしていくことによって、今後の日本の現代美術史の体系化の一助とするもの。
シンビズム1~4を「起承転結」からとらえるとすれば、シンビズム3は〝転〟といえる。
われわれシンビズム・ワーキンググループに参加した学芸員たちは、年齢層も幅広く、そのため学芸業務の経験年数が異なる。歳を重ねた者は過去に多くの作家との関わりがあり、一方で若い者は新しい時代を切り拓く感性を持っている。シンビズム3の作家選定に際しては、そうした仲間が取りあげる作家について協議し、たがいの意見を聞き合う場を設けることができた。そうすることによって、われわれは次の段階にいくことができたように思う。
では、シンビズム3で取りあげた作家についてふれたい。
まず、安曇野髙橋節郎記念美術館で展示する作家たちは次の3人。
晩年は富士見町のアトリエを拠点に制作した眞板雅文は、自然石や竹などといった自然の素材と鉄などの人工素材を組み合わせたスケールの大きなインスタレーションや彫刻を制作した。生涯を通じてアトリエを何度か移っても常に茅葺きの家を仕事場にしたというこの作家は、自然に人間がどう関わっていくべきかを考えていたように思う。
2015年に松本市に移住してきた大曽根俊輔は、大学で木工を学び、仏像の修理に携わってきた。乾漆で動物をモチーフにした彫刻作品を制作している。具象彫刻のリアルさが、逆に日常の生活空間に溶け込むのが不思議である。
信濃町にアトリエを持つ米林雄一は、宇宙の存在をテーマに、そこから発想するイメージを円や楕円、水平や垂直といった幾何学的な要素によって造形し、スケールの大きな表現を試みている。宇宙への関心から、JAXA(宇宙航空研究開発機構)との共同研究による宇宙ステーション内での粘土造形〝宇宙モデリング〟にも関わった。
上田市立美術館で展示するのは、次の4人の作家たち。
諏訪市出身の宮坂了作は、高松次郎塾で学んだ後にアメリカに渡り、「ハプニング」の表現を学んだ。1974年に帰国後は農業をしながら絵画を制作している。地図をモチーフに等高線ごとに表示される色彩の分布によって画面構成した作品を継続して制作している。
安曇野市(旧豊科町)出身の丸山雅秋は、はじめ佐藤忠良に師事し具象彫刻を制作していたが、18年間におよぶイタリア、ドイツでの滞在によって逆に日本人を自覚するようになり、作品は抽象に移り、単純な形体、温かみのある軟らかい材質感や、マチエールといった少ない造形言語で表現している。
上田市(旧中塩田村)出身の甲田洋二は、肉親や自己、自分の住む環境など極めて私的な題材をモチーフにして、それをまるでもうひとりの自分がみつめるように客観的に描いている。
1996年に阿智村に移住した山内孝一は、竹やススキや木、石といった自然の素材を用いたインスタレーションを制作しているほか、絵画を制作している。また、阿知川や天竜川の河原でワークショップも行っている。
一本木公園展示館/中野小学校旧校舎・信州中野銅石版画ミュージアムで展示するのは、次の3人の作家たち。
千曲市出身の柿崎順一は、花や木、果実、土を素材として大地や風景にインスタレーションをするランドアート、パフォーマンス、舞台美術が表現の舞台である。この作家は、花が枯れて朽ちていくまでを、インスタレーションのなかで展示する。花の滅びゆく姿は甘美で官能的でさえある。
軽井沢町にスタジオを持つ増田洋美は、ガラスを素材としたインスタレーションで知られた作家である。そのガラスたちは、どのような空間に置かれようとも、みごとに風景のなかに溶け込んでしまう。
北海道出身で飯綱町に住む榊原澄人は、身の周りの日常的な題材をテーマに、アニメーションによって反復やループ効果といった技法を使い、時の流れを語っていく。最近では実写による映像作品も制作している。
最後に、茅野市美術館で展示するのは、次の4人の作家たち。
諏訪市出身で現在は富士見町在住の塚田裕は、「森の生活~つながっているもの」をテーマに、森のなかで感じるイメージをキャンバスに定着させようとする。ときにキャンバスに落ちた枯葉がそのまま貼り付いていたりするが、常に変転するイメージの一瞬を画面に置き換えようとしている。
駒ヶ根市(旧赤穂村)出身の吉江新二は、東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)では日本画を学び、生涯を高校の美術教師として過ごした。自由美術と主体美術を舞台に、単調な色彩のなかにときに塗られた絵具を拭き取ったりしながら丹念に諧調やマチエールを作って、西洋の抽象にない日本的で詩的な抽象絵画を制作している。
高遠町出身の天野惣平は、武蔵野美術大学を卒業してイタリアに渡り学んだ後、1983年に故郷の廃村となった芝平(しびら)地区に移住し、制作した。2005年から廃校となった校舎で個展を開催し、亡くなる前年まで行っている。麻を素材とした立体造形や銅版画がこの作家の表現手法である。
飯田市出身の前沢知子は、ワークショップの参加者による成果物をトリミングして、絵画作品として展示する。不特定多数の体験成果を加工して作品にする「組替え絵画」の手法を用いている。
出展作家のうち最も若いのは、39歳の榊原澄人で、40代の作家は大曽根俊輔、前沢知子、柿崎順一の3人、50代は塚田裕、山内孝一の2人、60代は宮坂了作、丸山雅秋の2人、70代は米林雄一、増田洋美の2人、80代は甲田洋二のひとりで、残る眞板雅文、吉江新二、天野惣平の3人は物故している。
ほとんどの作家が、それぞれ自己の表現手法や造形回路の方向性を見出し、あるいは確立した境地に達しようとしているといえようか。
今度は表現手法の視点からみてみようと思う。
14人の作家のなかで、インスタレーションを主たる表現手法とする作家は、眞板雅文、増田洋美、山内孝一、柿崎順一、前沢知子の5人あたりだろう。このなかで、自然石や竹、木、ススキ、花など自然の素材を使うのは、眞板雅文、山内孝一、柿崎順一の3人で、増田洋美はガラス、前沢知子はワークショップの参加者の成果物という変わった素材を用いている。
ほかにも天野惣平、塚田裕の2人もインスタレーションによる作品を制作している。天野惣平は麻を使い、塚田裕は眞板雅文のアシスタントをしていたこともあって、わら、萱、木といった素材を使っている。
平面(絵画)を主に制作するのは、吉江新二、甲田洋二、宮坂了作、塚田裕の4人である。
彫刻を主に制作するのは、米林雄一、丸山雅秋、大曽根俊輔の3人で、天野惣平は前述したように麻を素材とする立体造形を制作しており、彫刻のジャンルに含めていいかもしれない。
そして、アニメーションをおもに表現するのが榊原澄人であり、このなかでは彼しかいない。
今回、本稿を書くに当たって、14人の作家の資料を集め、彼らの造形思考に近付こうと試みた。展覧会開催前のこともあり、すべての作家について実際の作品を眼にしたわけではない。的を得ない点がどこかにあるかもしれないが、私なりに感じたことを記しておく。
自然と人間との関わりを主題に、作家がそれぞれの立ち位置で表現しているのが、眞板雅文、山内孝一、塚田裕、天野惣平だろうか。眞板雅文が常に茅葺きの民家をアトリエ(仕事場)としたように、天野惣平が高遠町の廃村に移り住み、廃校となった校舎で展覧会を開催し続けたように、山内孝一が阿智村に移住し川原の石やススキの茎を素材にするように、塚田裕が富士見町の森のなかで制作するように、彼らは自然に触発されて作品のイメージが生まれる。信州で制作をしようと思うのは当然かもしれない。
そして、自然界におけるすべての生き物は皆、死に至り、土に還る。自然界の荘厳な循環(輪廻)の世界をわれわれにみせてくれるのが柿崎順一である。
宇宙も自然界の広大な一部であるから、米林雄一の造形思考もまた自然と人間との関わりでとらえられるかもしれない。この作家は、われわれが知覚することの難しい宇宙という無限の空間を感じさせてくれる。
自然と人間との関わりからいえば宮坂了作はまた別の意識を持っている。絵画には自然主義的写実の長い歴史があるが、この作家はこうした既成の概念を解体し、一定の法則性によって造形しようとする。
乾漆でリアルな動物彫刻を制作する大曽根俊輔は、外界の自然を室内空間に闖入させることで、われわれを楽しませてくれる。その動物たちは、どこか人格を持った人間のように見えてくるから不思議だ。
自然のなかでも、都市空間のなかでも、増田洋美のガラスは違和感がなく溶け込んでいく。ガラスという人工物でありながら、あらゆる環境に順応するこの表現は、人間と外界との共存、調和という作家の願いが込められているのだろうか。
自然や現代社会との関わりというより、より自己の内面に立って表現するのが甲田洋二である。生きていくうえで関わる他者や事象に対して抱く、愛憎半ばする複雑な意識や感情を、理性をもって正直に淡々と表現しようとするこの作家の制作態度は、稀有なものだと思う。
アニメーションのなかで、人と人とが織りなす時間の流れによる暗示的なドラマを見せてくれるのが榊原澄人である。この作家の作る画面には、複数の人物が至るところに出現して交錯し、意図しない因果関係を生み出し、それによって社会が形成され、その時間の蓄積により歴史がつくられていくことを私たちに教えてくれる。
精選した少ない言葉で、少ない言葉だからこそ、鮮烈な印象を与えるのが、吉江新二や丸山雅秋の仕事のように思われる。俳句や短歌、茶道や能狂言のように、余計なものをそぎ落とし純度の高い部分に集中することで、美の本質に迫ろうとする感覚が日本にはある。ふたりの芸術はそうした感覚に近い気がする。
これまでの作家とはまったく別の視点で制作しているのは前沢知子ではないかと思われる。制作の素材をワークショップ参加者の成果物に求め、ワークショップから作品制作、展示までを一体の表現として位置付けたことは、美術における表現の可動域を広げたかもしれない。また、幼児教育までを守備範囲とするこの作家にとって、美術表現における記名性についても問題を投げかけている。
人は誰しも自分の人生しか生きられない。そして時代の影響や、めぐりあう人の影響を受けながら自己を形成していく。本展の14人の作家たちもまた、それぞれの人生の旅のなかで、伝えたい何かがあって作品を作り、メッセージを発信している。
展示室を訪れる皆さんは、14のそれぞれのメッセージにめぐりあい、現代社会を生きる旅路の参考にしていただければと願っている。