学芸員の解説
Document
浮かびあがるおぞましいリアル
→ 甲田 洋二について解説
上田市立美術館
清水 雄
長野県上田市(旧小県郡中塩田村)出身の画家・甲田洋二。現在は東京都青梅市在住。いままで公募展にはほとんど関わらず、個展を中心に活動を続けている。甲田は人間の内に潜む狂気や、現代社会の混沌を冷静な目で俯瞰する。影響を受けた作家のなかにフランシス・ベーコン、ホルスト・ヤンセン、パウル・ヴンダーリッヒなどの名前が挙がり、かつては制作テーマのなかに〝強迫性密室願望的な状況〟というキーワードがあったというが、徐々にテーマが広がり、作品にも円熟味を増している。
今回の出展作品の中心は「Y氏の場合-High Way Dream」と名付けられた一連の作品で、圏央道建設工事の観察記録を作品へと昇華させたものである。たとえば《Y氏の場合-High Way Dream(きえたいえ)》では橋脚と家という具体的なモチーフが選ばれている。
建設途中の橋脚がそびえ立ち、むき出しの鉄筋が不気味さを増し、SF映画に出てくる異世界の建造物のようなイメージも浮かぶ。その足もとには黄色い炎か、あるいは鉄筋から発せられる雲のような物体が家いえを〝けして〟いるのかもしれない。高速道路の橋脚を象徴にした誰にも止めることができない現代社会の傲慢さが、人びとの〝生活〟や〝生命〟を象徴する〝いえ〟を脅かしているのか。顔料はアクリルが使われているが、発色による軽さが抑えられ、厚みのあるリアルな感触を伝える。一方で空間は風景画のような奥行きではなく、ポスターのようにフラットな処理がされ、その構成と色によって作品の印象をより強めている。この作品に限らず、余白と空間の使い方も甲田作品の魅力のひとつだ。
どのようにしてこの作風ができあがったのか少したどってみる。生まれは山間の農村、小学校に入学したのは敗戦の翌年。少年期は労働力として農地解放後の1000坪弱の田畑に駆り出され、汗まみれ、泥まみれの農作業。自然の営みが身体に染み込んだ。アート・芸術への道を決定づけたのは、上田松尾高校(現上田高校)での美術部。「校内にあって治外法権化した」その空間は、少年にとって想像もつかない異世界だった。美大浪人が朝から石膏デッサンを懸命に行い、公募展に出品するような大人も学校のフェンスの隙間から入ってきた。美術の情報拠点にもなっていたこの場所で、日々創り、描いていくうちに「全身で打ち込める世界は〝これ〟なのかと思えてきた」という。その後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)進学とともに信州を離れるが、山間での生活と高校時代の経験によって、懐深く柔和、それでいて気骨ある作家の気質が形成されたにちがいない。
氏は影響を受けた展覧会に、1966年に行われた「現代アメリカ絵画展」を挙げている。マーク・ロスコ、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタインなどのアメリカンポップアートは、普段の日常生活から生ずる、一見なんでもない事象を絵にしていることに衝撃を受けたという。その時期、甲田自身もデカルコマニーのようなアブストラクトな作品も制作していたというが、当時の日本ではまだ懐疑的であったアクリル絵の具を使いはじめ、現在に続いている。
現在の絵画スタイルのはじまりは77年のドイツ留学以降。このとき、北方ルネッサンスを中心にヨーロッパ14ヵ国の美術館をめぐった。とくにマティアス・グリューネヴァルトのイーゼンハイムの祭壇画には、キリスト教(宗教)とは遠い立場の人間にも絵画としての大きな意味を感じたという。制作よりも作品をみて考える時間が多かったというが、より自身の内側に深く目を向けた作品へと変化する。
なるほど、信州の山間とアメリカンポップアート、ドイツ留学での思索が混ざりあった結果、なんとも特異なスタイルを生み出したのである。
武蔵野美術大学学長を2期に渡って務め、その後は名誉教授。そして不穏でショッキングな絵画。しかし本人はそのイメージとはギャップを感じるほど、気さくで、飾らない。80歳になる現在も、かつて信州の山間の町で目覚めたアートへの情熱を忘れることなく制作に挑んでいる。
今回の出展作品の中心は「Y氏の場合-High Way Dream」と名付けられた一連の作品で、圏央道建設工事の観察記録を作品へと昇華させたものである。たとえば《Y氏の場合-High Way Dream(きえたいえ)》では橋脚と家という具体的なモチーフが選ばれている。
建設途中の橋脚がそびえ立ち、むき出しの鉄筋が不気味さを増し、SF映画に出てくる異世界の建造物のようなイメージも浮かぶ。その足もとには黄色い炎か、あるいは鉄筋から発せられる雲のような物体が家いえを〝けして〟いるのかもしれない。高速道路の橋脚を象徴にした誰にも止めることができない現代社会の傲慢さが、人びとの〝生活〟や〝生命〟を象徴する〝いえ〟を脅かしているのか。顔料はアクリルが使われているが、発色による軽さが抑えられ、厚みのあるリアルな感触を伝える。一方で空間は風景画のような奥行きではなく、ポスターのようにフラットな処理がされ、その構成と色によって作品の印象をより強めている。この作品に限らず、余白と空間の使い方も甲田作品の魅力のひとつだ。
どのようにしてこの作風ができあがったのか少したどってみる。生まれは山間の農村、小学校に入学したのは敗戦の翌年。少年期は労働力として農地解放後の1000坪弱の田畑に駆り出され、汗まみれ、泥まみれの農作業。自然の営みが身体に染み込んだ。アート・芸術への道を決定づけたのは、上田松尾高校(現上田高校)での美術部。「校内にあって治外法権化した」その空間は、少年にとって想像もつかない異世界だった。美大浪人が朝から石膏デッサンを懸命に行い、公募展に出品するような大人も学校のフェンスの隙間から入ってきた。美術の情報拠点にもなっていたこの場所で、日々創り、描いていくうちに「全身で打ち込める世界は〝これ〟なのかと思えてきた」という。その後、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)進学とともに信州を離れるが、山間での生活と高校時代の経験によって、懐深く柔和、それでいて気骨ある作家の気質が形成されたにちがいない。
氏は影響を受けた展覧会に、1966年に行われた「現代アメリカ絵画展」を挙げている。マーク・ロスコ、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタインなどのアメリカンポップアートは、普段の日常生活から生ずる、一見なんでもない事象を絵にしていることに衝撃を受けたという。その時期、甲田自身もデカルコマニーのようなアブストラクトな作品も制作していたというが、当時の日本ではまだ懐疑的であったアクリル絵の具を使いはじめ、現在に続いている。
現在の絵画スタイルのはじまりは77年のドイツ留学以降。このとき、北方ルネッサンスを中心にヨーロッパ14ヵ国の美術館をめぐった。とくにマティアス・グリューネヴァルトのイーゼンハイムの祭壇画には、キリスト教(宗教)とは遠い立場の人間にも絵画としての大きな意味を感じたという。制作よりも作品をみて考える時間が多かったというが、より自身の内側に深く目を向けた作品へと変化する。
なるほど、信州の山間とアメリカンポップアート、ドイツ留学での思索が混ざりあった結果、なんとも特異なスタイルを生み出したのである。
武蔵野美術大学学長を2期に渡って務め、その後は名誉教授。そして不穏でショッキングな絵画。しかし本人はそのイメージとはギャップを感じるほど、気さくで、飾らない。80歳になる現在も、かつて信州の山間の町で目覚めたアートへの情熱を忘れることなく制作に挑んでいる。