学芸員の解説
Document
榊原澄人のアニメーション 夢中になる意識
→ 榊原 澄人について解説
山ノ内町立志賀高原ロマン美術館
鈴木 一史
榊原澄人は1980年、北海道浦幌町に生まれ、15歳の時に渡英。ロイヤル・カレッジ・オブ アート(英国王立芸術大学院大学)アニメーション科博士課程修了後、《浮楼(Flow)》(2005)により、平成17年度第9回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞(2006)を受賞する。映像インスタレーション作品《É in Motionシリーズ》では、反復や変化や差異といったアニメーション技法そのものを駆使し「時間」「記憶」「物語性」「神話」「天体構造」を司るヴィジョンとして表出させている。代表作《É in Motion No.2》(2013)はアニメーションだからこそ表現可能な時間の経過、場面の転換、事象の動作を加えることに成功した作品として、現代絵画の到達点とも考えられる。また、ドーム型スクリーンに投影するために制作された《SOLITARIUM》(2015)は、スクリーンを頭蓋骨に見立て、脳内イメージとしての映像を投射する。鑑賞者にとっては、まるで作家の頭のなかに立たされているかのような錯覚を得る、新感覚の映像インスタレーションの現場を構築したといえる。
昨今、科学の進歩と技術的発明、それに同調するかのように登場し、めまぐるしく次々と新規格へと代わるメディア・アートは、最新鋭の存在としてエンターテイメント性をも体感できる爆発物のようなアートである。
そもそもそれらが芸術なのかどうかもわからなくなり、圧倒的なインパクトから穏やかではいられない。
そうしたなかで榊原澄人のアニメーションとしての創造物は、どこか絵画の歴史の古典的な部分を際どくえぐるジワジワとした破壊力が備わっているように感じられる。従来の歴史的画家たちがキャンバスにそれとなく封じ込めたがってきたであろう時間軸が、テクノロジーの力によってはじめて描画可能となり、彼の表現によって堂々と組み込むことができるようになった、まさに現代絵画の形であるといえる。
キャンバスの代わりに投影された光る画面のなかでは、万物の意志が織りなす数々の出来事が繰り返される。主人公(鑑賞者)であるはずの自分自身が置き去りにされて、焦点の無い世界の、それもまた意識の外で同時多発的に起こる現象が気にならないはずもなく、流れる画面の隅々までもが気になりはじめる。
アニメーションのソフトとしてみれば同じ映像のループ再生だが、榊原の表現と仕組まれた映像技術により鑑賞者の意識レベルでは反復の永遠性が中毒性を持って続くことになる。中毒性という言葉が果たして芸術表現としてふさわしいかわからないが、意識が取り込まれ鑑賞に〝夢中〟になる現象が起きる。そしてここでいう〝夢中〟とは、メディア・アートお得意の「仮想現実(バーチャル・リアリティ)へようこそ」、という巻き込み型ではなく、意識下の自発的な混入により作品と向き合ってはじめて開始される。
また、〝夢中〟という言葉は榊原の映像作品にはふさわしく思える。彼の作品には、鑑賞中の静寂のなかにある時間の経過へ向く意識を、シュルレアリスム的な超現実世界に浸透させる幅と深みがある。夢中とはいわば〝夢をみている間〟であるが、榊原作品における〝夢中〟とは、現実世界から引き離されつつも、意識ははっきりと存在している状態といえる。たとえば素晴らしい名画と対面した際に起こる、作家の精神と鑑賞者の意識とのぶつかり合いは、芸術との邂逅や絵画の鑑賞として長く培われてきた人間と絵画の関係性なのだ。彼の作品に夢中になっているとき、不思議と同様の感覚を得ることができる。
この度の舞台となる中野小学校旧校舎は、中野尋常小学校新校舎として1896(明治29)年に建てられ、中野市における教育の歴史とともに80年余りの歳月を現役の庶民教育機関として活躍した。現在は市の有形文化財として中野市の一本木公園内に移築復元されている。明治初期の西洋建築様式と和の融合した独特の構造と内部様式は、当時の記憶を留め、いまだ濃厚な学校としての雰囲気を漂わせる。この木造校舎の板張りの教室そのものが追憶のイメージを発現させる装置のような空間になっている。その旧教室にて榊原澄人のアニメーション作品が展示される。美術館のホワイトキューブの展示室とは異なり、映像作品展示としては決して最新鋭の環境ではない。しかし、旧校舎という場そのものの力が強く満ちている空間との融合により発揮される映像インスタレーションは、かつてない芸術反応を起こし鑑賞するものを〝夢中〟にさせてくれることだろう。
昨今、科学の進歩と技術的発明、それに同調するかのように登場し、めまぐるしく次々と新規格へと代わるメディア・アートは、最新鋭の存在としてエンターテイメント性をも体感できる爆発物のようなアートである。
そもそもそれらが芸術なのかどうかもわからなくなり、圧倒的なインパクトから穏やかではいられない。
そうしたなかで榊原澄人のアニメーションとしての創造物は、どこか絵画の歴史の古典的な部分を際どくえぐるジワジワとした破壊力が備わっているように感じられる。従来の歴史的画家たちがキャンバスにそれとなく封じ込めたがってきたであろう時間軸が、テクノロジーの力によってはじめて描画可能となり、彼の表現によって堂々と組み込むことができるようになった、まさに現代絵画の形であるといえる。
キャンバスの代わりに投影された光る画面のなかでは、万物の意志が織りなす数々の出来事が繰り返される。主人公(鑑賞者)であるはずの自分自身が置き去りにされて、焦点の無い世界の、それもまた意識の外で同時多発的に起こる現象が気にならないはずもなく、流れる画面の隅々までもが気になりはじめる。
アニメーションのソフトとしてみれば同じ映像のループ再生だが、榊原の表現と仕組まれた映像技術により鑑賞者の意識レベルでは反復の永遠性が中毒性を持って続くことになる。中毒性という言葉が果たして芸術表現としてふさわしいかわからないが、意識が取り込まれ鑑賞に〝夢中〟になる現象が起きる。そしてここでいう〝夢中〟とは、メディア・アートお得意の「仮想現実(バーチャル・リアリティ)へようこそ」、という巻き込み型ではなく、意識下の自発的な混入により作品と向き合ってはじめて開始される。
また、〝夢中〟という言葉は榊原の映像作品にはふさわしく思える。彼の作品には、鑑賞中の静寂のなかにある時間の経過へ向く意識を、シュルレアリスム的な超現実世界に浸透させる幅と深みがある。夢中とはいわば〝夢をみている間〟であるが、榊原作品における〝夢中〟とは、現実世界から引き離されつつも、意識ははっきりと存在している状態といえる。たとえば素晴らしい名画と対面した際に起こる、作家の精神と鑑賞者の意識とのぶつかり合いは、芸術との邂逅や絵画の鑑賞として長く培われてきた人間と絵画の関係性なのだ。彼の作品に夢中になっているとき、不思議と同様の感覚を得ることができる。
この度の舞台となる中野小学校旧校舎は、中野尋常小学校新校舎として1896(明治29)年に建てられ、中野市における教育の歴史とともに80年余りの歳月を現役の庶民教育機関として活躍した。現在は市の有形文化財として中野市の一本木公園内に移築復元されている。明治初期の西洋建築様式と和の融合した独特の構造と内部様式は、当時の記憶を留め、いまだ濃厚な学校としての雰囲気を漂わせる。この木造校舎の板張りの教室そのものが追憶のイメージを発現させる装置のような空間になっている。その旧教室にて榊原澄人のアニメーション作品が展示される。美術館のホワイトキューブの展示室とは異なり、映像作品展示としては決して最新鋭の環境ではない。しかし、旧校舎という場そのものの力が強く満ちている空間との融合により発揮される映像インスタレーションは、かつてない芸術反応を起こし鑑賞するものを〝夢中〟にさせてくれることだろう。