学芸員の解説
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かつ消え かつ結び
→ 吉江 新二について解説
安曇野髙橋節郎記念美術館
冨永 淳子
「いったい何が描かれているのか分からない」
抽象画に対し、よく耳にする感想だ。しかし、絵画ということであれば、先人がこんなヒントを用意してくれている。「絵画の本質的な特質は何よりもまず感覚の喜びにある」※1のだと。
《CINDER & CEMENT》は、灰とセメントを混ぜ画肌の質感に新しい表現を求めた作品である。人物や風景など具体的な対象を描いているわけではない。つまり、抽象画だ。ザッと刷く、てろりと垂らす、スイと削るなど、物質の量感と密度でみせる本作は、吉江新二晩年の作である。それまでは、色面の響き合いや均衡、長短広狭の線の配置といった、造形要素の組み合せによって画面を構成していた。画肌そのものへの追求に関心が移ったことにより、本作では形態の溶解が起こる。あらためて感覚的な喜びに身を委ね、灰やらセメントやらを、ああでもない、こうでもないと混ぜ合わす姿が浮かぶ。
何が描かれているのかわからないといえば、《青い風景》も同じだ。家並みがみえるので具象ということになろうが、場所や時間は特定できない。はじめて観たときは、青い絵だな、と思うばかりだ。ただ、霞がかったような、それでいて透明感のある青に思わず吸い寄せられる。微妙な濃淡を施した青の階調から立ちあがる風景は、瞑想的な静寂をたたえ、ただ叙情とはいえぬ、画家の心の内奥があらわれているかのようだ。
「一度消してね、消すっていうのは大変なの。残すもの残しながら消していく。」※2
という本作は、抽象表現を追求し続けるなかでひょいと顔を出す具象の1枚だ。実際の作業は上塗りして消すのだが、消したうえで残ったもののみを表現する吉江芸術の本質を示していよう。絵画における表現形式と内容は本来別々のものではないが、吉江の油彩表現には、画学生のときに学んだ日本画の造形思考が根底にあるのではないだろうか。
吉江は1919年、駒ヶ根で生まれた。医師だった祖父の跡を継ぐため医学校に進むが、その後、東京小石川の川端画学校に行き、東京美術学校(現東京藝術大学)で日本画を学ぶ。学徒出陣を経て復学、卒業。教職に就き、以来32年にわたり美術を教えた。生徒が提出した作品は大切に保存しておくようにいった。なぜなら、「おれは後悔したからさ。兵隊にとられる前の作品を焼かなければよかった、と。」※2 という経験があるからだ。
そんな吉江だが、作品を整理して逝く。「今ここにある古いのは展覧会が済んだら全部消してしまうんだ。大きいのだけは辰野美術館に持っててもらおうと思って」※2。99年に語ったように、現在残る作品は、その生涯に制作した作品数に比し決して多くはない。消すこと。吉江の表現に通ずる覚悟のようなものがあらわれている。
日本画を学びながらもその道を進まず、当時雑誌で紹介されはじめたマーク・ロスコやサイ・トゥオンブリーら海外の抽象画家たちの「自由な仕事ぶり」※3に啓発され、油彩で表現する道を選んだ。「周りが敷いたレールに乗るのは嫌で」※3美校に学んだ吉江ではあるが、その気質ゆえに、様式を重んじる日本画は肌に合わぬものであったろう。「何かこう自分の中で馴れ合いとすごく反発するの。葛藤みたいなものがあるんでね。つまり排除。ついてくるんだねその馴れ合いが。習慣みたいな。」※2と後年振り返る。手段であるはずの技法が、その先にある自身の表現を危うくすると感じていたかもしれない。しかし、アカデミックな教育により彼に入り込んだ、引き算の美学とでもいうような日本の伝統は、逆説的ではあるが、消そうとする意識という点において、後の画業にきわめて重要な意味を持ったのではないか。消していったあとの、純粋な結晶。抽くことによってのみ象られる世界、か。
美術団体の再建や設立の渦中に身を置き、画材を変え、対象を捨て、色彩や線、形態それ自体の表現力に己の芸術を見出していく吉江。「Rothko」や「Twombly」という文字が画面を踊るオマージュ作品や、社会を鋭く見据え、錆びた釘を兵士にみたてたコラージュ作品など、制作は多岐にわたるが、そんな彼の絵に、再び具体的な対象が表れる時期がある。故郷、長野に移り住んだ80年代だ。豊かな自然と光が吉江を誘ったのだろう。先に紹介した《青の風景》も同時期の作だ。
ある夕、障子を染める影に吉江は息をのむ。アトリエに入る陽の光を柔らかくするため、わざわざ窓の内側に障子を設えていたが、その和紙を通した洗濯物の色と形に心をとらえられたのだ。われ知らず紙を手にしてその瞬間をスケッチし、《影》という130号に仕上げた。生まれ育った伊那谷の光は、抽象画家に思わず具象を描かせる魅力を持っていたというわけだ。
「感覚の喜び」から、抽象も具象も軽々と行き来する表現者がここにいる。
受容するわれわれだって、ただ感覚の喜びだけでいい。そう吉江の絵は語っている。
抽象画に対し、よく耳にする感想だ。しかし、絵画ということであれば、先人がこんなヒントを用意してくれている。「絵画の本質的な特質は何よりもまず感覚の喜びにある」※1のだと。
《CINDER & CEMENT》は、灰とセメントを混ぜ画肌の質感に新しい表現を求めた作品である。人物や風景など具体的な対象を描いているわけではない。つまり、抽象画だ。ザッと刷く、てろりと垂らす、スイと削るなど、物質の量感と密度でみせる本作は、吉江新二晩年の作である。それまでは、色面の響き合いや均衡、長短広狭の線の配置といった、造形要素の組み合せによって画面を構成していた。画肌そのものへの追求に関心が移ったことにより、本作では形態の溶解が起こる。あらためて感覚的な喜びに身を委ね、灰やらセメントやらを、ああでもない、こうでもないと混ぜ合わす姿が浮かぶ。
何が描かれているのかわからないといえば、《青い風景》も同じだ。家並みがみえるので具象ということになろうが、場所や時間は特定できない。はじめて観たときは、青い絵だな、と思うばかりだ。ただ、霞がかったような、それでいて透明感のある青に思わず吸い寄せられる。微妙な濃淡を施した青の階調から立ちあがる風景は、瞑想的な静寂をたたえ、ただ叙情とはいえぬ、画家の心の内奥があらわれているかのようだ。
「一度消してね、消すっていうのは大変なの。残すもの残しながら消していく。」※2
という本作は、抽象表現を追求し続けるなかでひょいと顔を出す具象の1枚だ。実際の作業は上塗りして消すのだが、消したうえで残ったもののみを表現する吉江芸術の本質を示していよう。絵画における表現形式と内容は本来別々のものではないが、吉江の油彩表現には、画学生のときに学んだ日本画の造形思考が根底にあるのではないだろうか。
吉江は1919年、駒ヶ根で生まれた。医師だった祖父の跡を継ぐため医学校に進むが、その後、東京小石川の川端画学校に行き、東京美術学校(現東京藝術大学)で日本画を学ぶ。学徒出陣を経て復学、卒業。教職に就き、以来32年にわたり美術を教えた。生徒が提出した作品は大切に保存しておくようにいった。なぜなら、「おれは後悔したからさ。兵隊にとられる前の作品を焼かなければよかった、と。」※2 という経験があるからだ。
そんな吉江だが、作品を整理して逝く。「今ここにある古いのは展覧会が済んだら全部消してしまうんだ。大きいのだけは辰野美術館に持っててもらおうと思って」※2。99年に語ったように、現在残る作品は、その生涯に制作した作品数に比し決して多くはない。消すこと。吉江の表現に通ずる覚悟のようなものがあらわれている。
日本画を学びながらもその道を進まず、当時雑誌で紹介されはじめたマーク・ロスコやサイ・トゥオンブリーら海外の抽象画家たちの「自由な仕事ぶり」※3に啓発され、油彩で表現する道を選んだ。「周りが敷いたレールに乗るのは嫌で」※3美校に学んだ吉江ではあるが、その気質ゆえに、様式を重んじる日本画は肌に合わぬものであったろう。「何かこう自分の中で馴れ合いとすごく反発するの。葛藤みたいなものがあるんでね。つまり排除。ついてくるんだねその馴れ合いが。習慣みたいな。」※2と後年振り返る。手段であるはずの技法が、その先にある自身の表現を危うくすると感じていたかもしれない。しかし、アカデミックな教育により彼に入り込んだ、引き算の美学とでもいうような日本の伝統は、逆説的ではあるが、消そうとする意識という点において、後の画業にきわめて重要な意味を持ったのではないか。消していったあとの、純粋な結晶。抽くことによってのみ象られる世界、か。
美術団体の再建や設立の渦中に身を置き、画材を変え、対象を捨て、色彩や線、形態それ自体の表現力に己の芸術を見出していく吉江。「Rothko」や「Twombly」という文字が画面を踊るオマージュ作品や、社会を鋭く見据え、錆びた釘を兵士にみたてたコラージュ作品など、制作は多岐にわたるが、そんな彼の絵に、再び具体的な対象が表れる時期がある。故郷、長野に移り住んだ80年代だ。豊かな自然と光が吉江を誘ったのだろう。先に紹介した《青の風景》も同時期の作だ。
ある夕、障子を染める影に吉江は息をのむ。アトリエに入る陽の光を柔らかくするため、わざわざ窓の内側に障子を設えていたが、その和紙を通した洗濯物の色と形に心をとらえられたのだ。われ知らず紙を手にしてその瞬間をスケッチし、《影》という130号に仕上げた。生まれ育った伊那谷の光は、抽象画家に思わず具象を描かせる魅力を持っていたというわけだ。
「感覚の喜び」から、抽象も具象も軽々と行き来する表現者がここにいる。
受容するわれわれだって、ただ感覚の喜びだけでいい。そう吉江の絵は語っている。
※1 ウォルター・ペイター『ルネサンス』(1873年、引用者訳)
※2 「作家に聞く」(1999年、辰野美術館)
※3 「アトリエ訪問」(2000年9月5日、信濃毎日新聞)
※2 「作家に聞く」(1999年、辰野美術館)
※3 「アトリエ訪問」(2000年9月5日、信濃毎日新聞)