[ 絵画、インスタレーション ]
小松 良和
KOMATSU Yoshikazu
- 1949
- 長野県伊那市西箕輪に生まれる
- 1969
- 上京、すいどーばた美術学院で学ぶ
- 1970
- 東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻入学
- 1972
- すいどーばた美術学院講師
- 1973
- 三成会(さんじんかい)参加
- 1974
- 東京藝術大学卒業、渡欧
- 1976
- 同大大学院修士課程修了
- 1979
- すいどーばた美術学院退職 秀明学院美術講師
- 1981
- 長野県野沢南高等学校美術科教師
- 1983
- 長野県塩尻高等学校に転勤
- 1984
- 自宅にアトリエ完成
- 1985
- 逝去(36歳)
- 収蔵
- ダイムラー・クライスラー・日本ホールディング株式会社、和歌山県立近代美術館、ドイツ銀行など
私が今迄やってきた絵画が色褪せてみえたのも、私の考えている絵とはこういうものであろうと、それに向かって描きなぐったことによるものだ。一筆一筆で違った見え方をする現実からは目をそらせていたからだ。「そうか今俺は旅をしているんだ」という転換により、創作の新たな地平を見た思いがしたのだった。(中略)
私の画業は大きく変った。油絵は私の現実を考え合わせるとそぐわない素材となり、紙と鉛筆で一本線を引くだけで充分だという短絡がまかり通る。旅のように、私の創作は自然理に沿うように現実と一体になることだ。これからいくつもの岐路があることだろう。日常的に馴致され鈍磨する意識のフレームをたえず現実にさらすことこそ、私の人生であり創作である。
The reason why the paintings which I previously made looked faded was due to the fact that I scribbled toward rendering the image of, “the painting I was thinking of would be like this.” In other words, it resulted from averting my eyes from the reality of my painting in which everything looked differently with every brush stroke. By switching my way of thinking to something like, “Yes, indeed, I’m traveling right now,” I discovered that I came upon a new horizon of creating my work. (Omission)
My painting changed a lot. Concentrating on reality, I became aware that oil colors weren’t suitable material for my work, where, a simplistic idea, such as, “only to draw a line on paper by pencil is enough,” is allowed. Just like traveling, my production should be part of reality as if following Mother Nature. However, I may indeed encounter a number of crossroads from now on. To continuously expose to reality my frame of consciousness, which becomes rusty and blurred in everyday life, is what my life and creating art are.
おもな作品発表歴
- 1974 - 1980
- 「三成会展」(ギャラリーみぞくち・旧信金ホール/伊那市)
- 1976
- 個展(銀座スルガ台画廊/東京都)、「NO-TOUCH」(藍画廊/東京都)、「大橋賞展」(東京セントラル美術館/東京都)、「資料化展」(神奈川県民ホール/神奈川県)
- 1977・1978
- 「TOMORROW展No.1・2」(銀座スルガ台画廊/東京都)
- 1977・1979・1980
- 個展(白樺画廊/東京都)
- 1978
- 個展(藍画廊/東京都)、「プロクセミックス展」(立川市市民会館/東京都)、「渋谷・どり・10人・35日展」(渋谷ギャラリーどり/東京都)
- 1979・1980
- 「PLANNING-PROJECT No.1・2」(サトウ画廊・開催地不明/東京都)
- 1980
- 「机上の現場展」(ルナミ画廊/東京都)、「隣接性展」(Gアートギャラリー/東京都)
- 1981・1982
- 個展(田村画廊/東京都)
- 1981
- 「オペラ展」(東京都美術館/東京都)
- 1984
- 「大橋賞受賞作家展」(髙島屋/東京都・大阪府)
「夫婦二人展」(ベルシャイン/伊那市)
- 1985
- 「今日の作家展」(辰野町郷土美術館/辰野町)
「現代の作家展」(長野県信濃美術館/長野市)
- 1986
- 遺作展・宿営地-(東京藝術大学大学会館・田村画廊/東京都、辰野町郷土美術館/辰野町)
- 2001
- 常設展特集展示(辰野美術館/辰野町)
- 2003
- 「伊那谷の美シリーズ5 今、よみがえる小松良和展」(長野県伊那文化会館/伊那市)
おもな受賞歴
- 1974
- 大橋賞受賞
小松良和試論
Essay on KOMATSU Yoshikazu
今回、シンビズム展で長野県ゆかりの現代美術を主とした戦後活躍した作家を取り上げることになったとき、この早世したがために忘れられている作家をぜひ出展作家に加えたいと思った。
小松良和は、1949年に伊那市西箕輪で生まれた。70年に東京藝術大学絵画科に入学し、卒業する74年に大橋賞を受賞している。大橋賞は藝大の油彩画を専攻する成績優秀者に与えられる奨学金である。そして76年に同大学の大学院を修了した。
ここまで書いていると、この作家がいかに優秀で順調な制作を続けていたかと思うが、優秀な者ゆえにその後は多難な人生と画業を歩み続けることになる。
この作家が活動を開始する1970年代は、いわゆる〝もの派〟全盛の時代だった。〝もの派〟とは、木や土や石や鉄などの素材をほとんど加工せずに展示して空間構成をするもので、李リー ウーファン禹煥や多摩美術大学の斎藤義重教室の関根伸夫、菅木志雄らの制作に対してそうよばれている。
また、学園闘争の嵐が吹き荒れた69年に、多摩美術大学の学生たちによって結成された美術家共闘会議(〝美共闘〟、小松の文章では〝美共連〟となっているが同じ組織と考えられる)※1は、学園闘争の収束により政治組織から表現集団に変わり、制度批判から美術表現の否定そして制作概念の喪失へと向かっていった。※2
1970年代に活動した作家たちは、そうした集団の外にいたとしても、〝もの派〟や〝美共闘〟の影響を強く受けた。千葉成夫は「70年代作家群」とは、広義の「美共闘世代」と位置づけている。※3
アカデミックな美術教育の牙城である東京藝術大学で学び、優秀な成績を収めた小松も、こうした時代の潮流に大きな影響を受けた。既に「卒業制作あたりから次第に絵が色褪せて見え…」※4、大学院を修了して研究生として大学に残るが、自身の制作態度に疑問を感じ半年後に去ることになる。その後、制作は平面からインスタレーションに移行し、個展やグループ展で積極的に発表するようになるが、利枝子夫人曰く「彼の作品は急速に変化していった。イメージが消え、色彩が消え、結局絵画そのものを否定していく事に」※5なっていった。
今回展示した作品群は、この作家の〝絵画回帰〟してからの作品である。藝大時代の大橋賞を受賞した頃の具象画も作家の力量をうかがわせるに十分な作風だったが、〝絵画回帰〟後は抽象に移行した。
小松は81年12月の手紙のなかで、〝混迷の過渡期〟を振り返り「結局過渡期からは何一つ表現様式を獲得することはなかったようです」と語り、今後の〝絵画回帰〟に対する覚悟のような思いを語っている。※6
冒頭に紹介した作品は84年の制作である。前述の本人の〝絵画回帰〟の覚悟を示した3年後であり(まさに本格的に絵画を再開した頃だ)、それから1年後に亡くなっている。
白を基調とした画面に淡い青色や赤色が滲むように置かれている。美しい色彩と渇いたマチエールのうえに、古い看板につけられた傷のような描線が、描くこと自体を再確認するかのように繊細にひかれている。この描線は、失った長い時間を経てようやく描くということを取り戻したという自覚の意識なのか。そしてそれは絵画する歓びを得ようとする作家の願いなのか。
この作家は、独自の画風を構築する前に早世したかもしれないが、その潜在する才能と前に進み続ける意欲を内包した、作家の荒ぶる魂が封じ込められた静謐な画面に、わたしは強く魅かれる。
戦後の現代美術の流れのなかで、前進を求められた時代―それが前進かどうか知らないが―に、誠実に向き合い、苦しみながらも画業を貫いたこの作家の気概に胸を打たれる。
大竹 永明(梅野記念絵画館 ふれあい館)
※1 小松良和「岐路」(小松利枝子『小松良和作品集』、昭森社、1986年)p.95〜97 に〝美共連〟の記述がみられる。
※2 美術家共闘会議については、千葉成夫『現代美術逸脱史』(晶文社、1986年)に詳しい。
※3 同書p.168
※4 小松良和「岐路」(小松利枝子『小松良和作品集』、昭森社、1986年、p.95)
※5 小松利枝子「傍らで」同書p.105
※6 小松良和「K氏へ−日記より−」同書p.103
KOMATSU Yoshikazu won the Ohashi Prize, a Scholarship, which is awarded only to the most excellent students of the Tokyo University of the Arts. The 1970s was the golden age of the “Mono-ha,” or “School of Things.” In those days, the Artists’ Joint Struggle League (Bi-kyoto) denied artistic expression, but the artists that belonged to it gradually lost their production concepts. Most artists in the 1970s tended to be strongly influenced by this movement. KOMATSU also switched from painting to installation and denied painting itself as well. After returning to his hometown, while teaching art at high school, he started painting once again. In this exhibition, his works after his “return to painting” are on display.
Because of his early death, his pursuit of painting came to a halt.
Nevertheless, his calm but concealed savage spirit in his paintings are fascinating.
Otake, Nagaaki / TOMI CITY UMENO MEMORIAL MUSEUM OF ART
[安曇野会場] 終了しました
2021.8.14sat - 9.12sun
安曇野市豊科近代美術館
9:00-17:00休館日 = 月曜日(祝日の場合は翌日)
長野県安曇野市豊科5609-3電話 0263-73-5638