学芸員の解説
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彫刻のこと、宇宙のこと、人柄のこと
→ 米林 雄一について解説
おぶせミュージアム・中島千波館
宮下 真美
米林雄一の彫刻は、どれもずっと眺めていたい心地よさが感じられる。
作品には直線や曲線が多用され、混ざり合いながらもバランスがいい。数学のグラフや数式が美しいように、米林雄一の彫刻にもそれが意識的に使われているのではないか。しかし本人は、「線などは自然界の方が数学より先にあって、それを結果的に数学として解明してくれている。たとえば種の黄金比『フィボナッチ数列』というものがある」と、アトリエにある枯れたひまわりを見ていった。
米林の彫刻作品は、セメントからはじまり、真鍮などの金属作品を経て、木彫作品へと移り変わっていく。木彫作品は、木に鉛筆の粉を塗っているため一見すると金属にも見える。重厚感のある作品は、表面に虫が這った痕跡のような模様が表面に施されているものもあったり、三角や四角の組み合わせであったりする。まるで、パズルのようだ。抽象的な作品を観ていて時折感じる「わからない」とかもやもやしたような感覚は出てこない。「迫力がある」「整っていて美しい」「圧巻」という言葉が先に出てくるのだ。
米林は1942年に東京で生まれ、3歳のとき富山に疎開、そこで19年を過ごす。金沢美術工芸大学、東京藝術大学大学院で彫刻を学び、美術団体の二紀会に籍を置く。「平櫛田中賞」を受賞するなど活躍している。JAXA(宇宙航空研究開発機構)との共同研究や海外への派遣、空間プロデュースのほか、金沢駅前のモニュメントや理化学研究所計算科学研究機構(現理化学研究所計算科学研究センター)の塔など、パブリックアートも数多く手がける。被災地でのワークショップ、東京都美術館での10年におよぶ先進的な教育普及活動への参加なども、彼の活動の重要な側面だ。
長野との縁は東京藝術大学退官後、小布施町でパン屋を営んでいた故岩崎小弥太氏との出会いにより、彼の店舗の目の前の一軒家を紹介され、アトリエとして拠点のひとつとしたことだった。現在、小布施での活動はひと区切りとし、信濃町にアトリエを構えている。
米林はJAXAとの共同研究も行っていて、この作家について語るうえで「宇宙」というテーマははずせないものである。近年、展覧会のサブタイトルに「宇宙」が多用されているが、実際いつから「宇宙」を意識するようになったのか。
最初は《宇宙の客》という22歳のときの作品で、タイトルには「地球人は宇宙の客人だ」という意味があり、当時は高度経済成長の時代で、「これから面白くなっていくのは宇宙だ」と感じたという。北極や南極の探検、エベレストの初登頂など冒険や探査の時代から現在まで、宇宙への興味は尽きることがなく、創作意欲をかきたてるものなのだろう。
2000年から03年にかけて、宇宙飛行士とともに「国際宇宙ステーションの軌道モデルの制作」「宇宙手形」「宇宙モデリング」の3つの研究テーマを実施した。宇宙ステーションのなかでグレゴリー・シャミトフ飛行士が「ひとがた」を特殊な粘土で作り、地球に持ち帰るというプロジェクトは、米林にとってどれほど感慨深いものだったか。
個人的な意見をいわせてもらうならば、私が米林の作品でとくに好きなのは銀製の≪机と椅子≫である。ダイナミックな重厚感のある作品ももちろんすてきだと思うのだが、こちらは手のひらに乗るほどの小さな作品である。最初期のこの作品は、小学校の机と椅子がモデルで、椅子を手でつまむと前後に動く仕組みになっている。以前、「机にあった誰かの落書きや傷に、鉛筆の芯で塗りつぶした思い出があり、そのことは後の作品を黒く塗りつぶす行為につながっているはず」と語っていたのが印象的だった。
米林について書くにあたり、やはり人柄についてふれたい。勤務先の美術館からほど近い小布施にアトリエがあったとき以来、よくお茶を飲みながら美術談義や制作秘話、世間話などを夢中でしていた。その時間はとても貴重で、大学の名誉教授であり、ベテランの彫刻家であることを忘れさせた。私にとって「雲のうえの人」のような有名な評論家について話せば「会って一緒にお酒を飲んだことがある、こんな感じの人だよ」と教えてくれることもあれば、アメリカに留学中の娘がトランプ大統領の反対デモに参加しているが、事故に巻き込まれないか心配だ、などなど。
ここで数々の面白エピソードを披露すると、肝心の作品について書くことができないためここでは控えるが、飾らない人柄、それとは対照的な凛とした作品、その両方を持ち合わせていることが、米林雄一の最大の魅力である。
作品には直線や曲線が多用され、混ざり合いながらもバランスがいい。数学のグラフや数式が美しいように、米林雄一の彫刻にもそれが意識的に使われているのではないか。しかし本人は、「線などは自然界の方が数学より先にあって、それを結果的に数学として解明してくれている。たとえば種の黄金比『フィボナッチ数列』というものがある」と、アトリエにある枯れたひまわりを見ていった。
米林の彫刻作品は、セメントからはじまり、真鍮などの金属作品を経て、木彫作品へと移り変わっていく。木彫作品は、木に鉛筆の粉を塗っているため一見すると金属にも見える。重厚感のある作品は、表面に虫が這った痕跡のような模様が表面に施されているものもあったり、三角や四角の組み合わせであったりする。まるで、パズルのようだ。抽象的な作品を観ていて時折感じる「わからない」とかもやもやしたような感覚は出てこない。「迫力がある」「整っていて美しい」「圧巻」という言葉が先に出てくるのだ。
米林は1942年に東京で生まれ、3歳のとき富山に疎開、そこで19年を過ごす。金沢美術工芸大学、東京藝術大学大学院で彫刻を学び、美術団体の二紀会に籍を置く。「平櫛田中賞」を受賞するなど活躍している。JAXA(宇宙航空研究開発機構)との共同研究や海外への派遣、空間プロデュースのほか、金沢駅前のモニュメントや理化学研究所計算科学研究機構(現理化学研究所計算科学研究センター)の塔など、パブリックアートも数多く手がける。被災地でのワークショップ、東京都美術館での10年におよぶ先進的な教育普及活動への参加なども、彼の活動の重要な側面だ。
長野との縁は東京藝術大学退官後、小布施町でパン屋を営んでいた故岩崎小弥太氏との出会いにより、彼の店舗の目の前の一軒家を紹介され、アトリエとして拠点のひとつとしたことだった。現在、小布施での活動はひと区切りとし、信濃町にアトリエを構えている。
米林はJAXAとの共同研究も行っていて、この作家について語るうえで「宇宙」というテーマははずせないものである。近年、展覧会のサブタイトルに「宇宙」が多用されているが、実際いつから「宇宙」を意識するようになったのか。
最初は《宇宙の客》という22歳のときの作品で、タイトルには「地球人は宇宙の客人だ」という意味があり、当時は高度経済成長の時代で、「これから面白くなっていくのは宇宙だ」と感じたという。北極や南極の探検、エベレストの初登頂など冒険や探査の時代から現在まで、宇宙への興味は尽きることがなく、創作意欲をかきたてるものなのだろう。
2000年から03年にかけて、宇宙飛行士とともに「国際宇宙ステーションの軌道モデルの制作」「宇宙手形」「宇宙モデリング」の3つの研究テーマを実施した。宇宙ステーションのなかでグレゴリー・シャミトフ飛行士が「ひとがた」を特殊な粘土で作り、地球に持ち帰るというプロジェクトは、米林にとってどれほど感慨深いものだったか。
個人的な意見をいわせてもらうならば、私が米林の作品でとくに好きなのは銀製の≪机と椅子≫である。ダイナミックな重厚感のある作品ももちろんすてきだと思うのだが、こちらは手のひらに乗るほどの小さな作品である。最初期のこの作品は、小学校の机と椅子がモデルで、椅子を手でつまむと前後に動く仕組みになっている。以前、「机にあった誰かの落書きや傷に、鉛筆の芯で塗りつぶした思い出があり、そのことは後の作品を黒く塗りつぶす行為につながっているはず」と語っていたのが印象的だった。
米林について書くにあたり、やはり人柄についてふれたい。勤務先の美術館からほど近い小布施にアトリエがあったとき以来、よくお茶を飲みながら美術談義や制作秘話、世間話などを夢中でしていた。その時間はとても貴重で、大学の名誉教授であり、ベテランの彫刻家であることを忘れさせた。私にとって「雲のうえの人」のような有名な評論家について話せば「会って一緒にお酒を飲んだことがある、こんな感じの人だよ」と教えてくれることもあれば、アメリカに留学中の娘がトランプ大統領の反対デモに参加しているが、事故に巻き込まれないか心配だ、などなど。
ここで数々の面白エピソードを披露すると、肝心の作品について書くことができないためここでは控えるが、飾らない人柄、それとは対照的な凛とした作品、その両方を持ち合わせていることが、米林雄一の最大の魅力である。