学芸員の解説
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What is your starting point? “ あなたの原点は何か?
→ 宮坂 了作について解説
軽井沢ニューアートミュージアム
由井 はる奈
それは、1972年、カリフォルニア芸術大学(CalArts)に留学した宮坂が、芸術家、アラン・カプローの最初の授業で受けた言葉だった。カプローは1950年代後半から70年代前半にかけて行われた芸術運動「ハプニング」を提唱。〝happen〟つまり事象の起こる偶発的かつ一過性な瞬間を作品化し、後の動向「イヴェント」や「パフォーマンス・アート」などに大きな影響を与えた。
自身の原点を問われた宮坂は自問する。長野県諏訪市の農家に生まれ、豊かな自然とさまざまな動物に囲まれて育った少年時代。やがて自らの原点が「農業」にあると思い至り、カプローのクラスで《A・ファイア・フェスティバル》(1972)を実施する。まず、CalArts敷地内の丘の斜面に縦30m、横10m、幅1.5m、深さ50cmの「A」の文字を掘り、そこにゴミを入れて燃やし、A文字焼きをする。焼き終えたら土を埋め肥料にして、花の種を蒔き、Aの形の花を咲かせ、その後、何もない大地に戻した。「A」はアメリカのAであり、アートのA、さらにはすべてのはじまりのAだという。焼畑農業の手法で大自然の循環を鮮やかに示したこの作品はカプローに称賛される。その後もコンセプチュアル・アーティストのハンス・ハーケのもとで、学校内を歩いた場所と時間を地図に記録し、そこで撮影した風景や人物の写真フィルムを感光、図像を消して記憶のみに残し、地図とフィルムの残骸をテーブルに置くといった作品《ハンス・ハーケの作品の作品》(1972)を制作している。
73年にニューヨークにあるクーパー・ユニオン・アート・スクールでの半年間の交換留学を経て、74年CalArtsを卒業し、帰国する。その後、80年に郷里へ戻った。
宮坂が地図を出発点にさまざまに展開する絵画を描きはじめたのは75年の《地図(始まり)》からである。高度に応じて色を塗りわける段彩図の色彩(深海は青、平野部は黄緑色、山地は茶色系統で、深くもしくは高くなるほど濃い色に彩色される)を用いたこれら一連の地図の絵画は、宮坂によると「アースワーク」を画面に落とし込んだものだという。つまり、それはキャンバスに描かれた大地であり、その本来の姿は観る者のイマジネーションのなかにだけ存在する。《風景(四つの点)》(1991)は郷里の御柱祭をテーマにしたもので、4つの点は左上から時計回りに水深6,000m以上、海抜0m、標高5,000m以上、平地をそれぞれ示している。鑑賞者にはぜひ、想像してほしい。現実には存在しない大地のあり方を。同じ諏訪地域出身で交流のあったコンセプチュアル・アーティストの松澤宥が本作に興味を示し、宮坂は勇気付けられたという。
宮坂の本質はコンセプチュアル・アートにあり、その絵画はイマジネーションを喚起する装置といえよう。それは、宮坂が渡米する前、日本大学芸術学部在学中に師事した前衛芸術家・高松次郎の作風に通じるように思われる。宮坂は71年に高松の主宰する塾の第1期生として1年間学び、彼のアシスタントとして作品制作にも携わった。「影」をモチーフに主体の不在を追求した絵画シリーズを手がけた高松からは、描かないことの表現、つまりマイナスの思考を学んだという。幅約4mの大作《地図(島)》(1992-93年)にはその思考が働いている。画面中央に小さな島がひとつあり、その周辺には波紋が広がっている。これらはあえて偶然性が生じるように腕の動きの赴くままに線を引き、線が重なってできた区画を、画面の中心部分を最も高い標高として順番に段彩図の法則で彩色したものである。作家の情動からではない、一定の法則性によって生まれた本作は、どこか、必然の美しさを放っている。マチエールは人為を消すかのように平らで、鮮やかな色彩はそれぞれの区画内を幾重にも塗り重ねているという。線が重なる部分の細かな彩色は面相筆よりもさらに細い筆で描かれた手仕事である。
この偶然性、いわば自然と対峙する根気のいる手作業は宮坂が農業に取り組んできたことと無関係ではない。帰郷して以来、宮坂は農業を生業としてきた。そして、それは彼にとって原点であった。近年手がける《植物文字》は、アルファベットや数字の形に小松菜や春菊などの種を植え、育て、文字の形に茂った葉のその形がわからなくなるほど成長したところで刈り取り食べるという作品である。それは「野菜を食べる」という当たり前の行為に輪郭線を与え、私たちにその行為の意味を改めて認識させる。大地とともに植物は育ち、人はそれを食し、生きていく。そして、去っていくという事実。やがて、すべてが元に戻っていくという循環。宮坂のアートは遥か彼方の形而上の存在ではなく、私たちの日常の〝happen〟に気付くきっかけを与える。
人はアートのみでは生きられない。と同時に、生活のみでも生きられない。おそらく、そのようにできている。生活者として培われた宮坂の指先から生まれる地図の絵画が、イマジネーションの自由ととともに、広大な海と大地の形となってどこまでも創造されていくように、私たちは日常のなかでどこまでもいける。それは、現代における、人とアートとの関係の自然な形に思われてならない。
自身の原点を問われた宮坂は自問する。長野県諏訪市の農家に生まれ、豊かな自然とさまざまな動物に囲まれて育った少年時代。やがて自らの原点が「農業」にあると思い至り、カプローのクラスで《A・ファイア・フェスティバル》(1972)を実施する。まず、CalArts敷地内の丘の斜面に縦30m、横10m、幅1.5m、深さ50cmの「A」の文字を掘り、そこにゴミを入れて燃やし、A文字焼きをする。焼き終えたら土を埋め肥料にして、花の種を蒔き、Aの形の花を咲かせ、その後、何もない大地に戻した。「A」はアメリカのAであり、アートのA、さらにはすべてのはじまりのAだという。焼畑農業の手法で大自然の循環を鮮やかに示したこの作品はカプローに称賛される。その後もコンセプチュアル・アーティストのハンス・ハーケのもとで、学校内を歩いた場所と時間を地図に記録し、そこで撮影した風景や人物の写真フィルムを感光、図像を消して記憶のみに残し、地図とフィルムの残骸をテーブルに置くといった作品《ハンス・ハーケの作品の作品》(1972)を制作している。
73年にニューヨークにあるクーパー・ユニオン・アート・スクールでの半年間の交換留学を経て、74年CalArtsを卒業し、帰国する。その後、80年に郷里へ戻った。
宮坂が地図を出発点にさまざまに展開する絵画を描きはじめたのは75年の《地図(始まり)》からである。高度に応じて色を塗りわける段彩図の色彩(深海は青、平野部は黄緑色、山地は茶色系統で、深くもしくは高くなるほど濃い色に彩色される)を用いたこれら一連の地図の絵画は、宮坂によると「アースワーク」を画面に落とし込んだものだという。つまり、それはキャンバスに描かれた大地であり、その本来の姿は観る者のイマジネーションのなかにだけ存在する。《風景(四つの点)》(1991)は郷里の御柱祭をテーマにしたもので、4つの点は左上から時計回りに水深6,000m以上、海抜0m、標高5,000m以上、平地をそれぞれ示している。鑑賞者にはぜひ、想像してほしい。現実には存在しない大地のあり方を。同じ諏訪地域出身で交流のあったコンセプチュアル・アーティストの松澤宥が本作に興味を示し、宮坂は勇気付けられたという。
宮坂の本質はコンセプチュアル・アートにあり、その絵画はイマジネーションを喚起する装置といえよう。それは、宮坂が渡米する前、日本大学芸術学部在学中に師事した前衛芸術家・高松次郎の作風に通じるように思われる。宮坂は71年に高松の主宰する塾の第1期生として1年間学び、彼のアシスタントとして作品制作にも携わった。「影」をモチーフに主体の不在を追求した絵画シリーズを手がけた高松からは、描かないことの表現、つまりマイナスの思考を学んだという。幅約4mの大作《地図(島)》(1992-93年)にはその思考が働いている。画面中央に小さな島がひとつあり、その周辺には波紋が広がっている。これらはあえて偶然性が生じるように腕の動きの赴くままに線を引き、線が重なってできた区画を、画面の中心部分を最も高い標高として順番に段彩図の法則で彩色したものである。作家の情動からではない、一定の法則性によって生まれた本作は、どこか、必然の美しさを放っている。マチエールは人為を消すかのように平らで、鮮やかな色彩はそれぞれの区画内を幾重にも塗り重ねているという。線が重なる部分の細かな彩色は面相筆よりもさらに細い筆で描かれた手仕事である。
この偶然性、いわば自然と対峙する根気のいる手作業は宮坂が農業に取り組んできたことと無関係ではない。帰郷して以来、宮坂は農業を生業としてきた。そして、それは彼にとって原点であった。近年手がける《植物文字》は、アルファベットや数字の形に小松菜や春菊などの種を植え、育て、文字の形に茂った葉のその形がわからなくなるほど成長したところで刈り取り食べるという作品である。それは「野菜を食べる」という当たり前の行為に輪郭線を与え、私たちにその行為の意味を改めて認識させる。大地とともに植物は育ち、人はそれを食し、生きていく。そして、去っていくという事実。やがて、すべてが元に戻っていくという循環。宮坂のアートは遥か彼方の形而上の存在ではなく、私たちの日常の〝happen〟に気付くきっかけを与える。
人はアートのみでは生きられない。と同時に、生活のみでも生きられない。おそらく、そのようにできている。生活者として培われた宮坂の指先から生まれる地図の絵画が、イマジネーションの自由ととともに、広大な海と大地の形となってどこまでも創造されていくように、私たちは日常のなかでどこまでもいける。それは、現代における、人とアートとの関係の自然な形に思われてならない。