解説
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続くシンビズム ユニオンの蓄積
あらためて「シンビズム」とは
「シンビズム5」がはじまる。2017年から2021年にかけて、これまで4回の「シンビズム」を開催し、計14の会場にて65名の長野県ゆかりの美術作家を紹介してきた。2022年秋には「シンビズム1」を振り返りつつも、また作家たちの進化を再確認する試みとして展覧会「Re-SHINBISM1 そして未来へ」を開催、15名の作家が再度参加し、現在の姿をみせてくれる機会となった。そして2023年、今回の「シンビズム5」では新たに11名の作家がシンビズムの輪へと加わることとなる。
「シンビズム」とは「信州の美術の主義」「新しい美術」「真の美術」「親しい美術」の4つの意味を込めたアートプロジェクトの名である。そして信州ミュージアム・ネットワークに参加する多くの学芸員が恊働し、学び実践する場でもあり、ユニオン(共同体)を形成しているとともに、〝展覧会〟としての形を象徴する言葉でもある。シンビズムが実験的な試みとして回数を重ねてきた中で生まれ、実現させてきた構想、意図として以下のような方向性が築かれてきた。
「シンビズム」とは「信州の美術の主義」「新しい美術」「真の美術」「親しい美術」の4つの意味を込めたアートプロジェクトの名である。そして信州ミュージアム・ネットワークに参加する多くの学芸員が恊働し、学び実践する場でもあり、ユニオン(共同体)を形成しているとともに、〝展覧会〟としての形を象徴する言葉でもある。シンビズムが実験的な試みとして回数を重ねてきた中で生まれ、実現させてきた構想、意図として以下のような方向性が築かれてきた。
・各学芸員が展覧会コンセプトに基づき比較的自由に1人の若手作家を扱った第1回(2017)
・選定委員を入れ、より公共性を持たせ、各学芸員が1人の若手作家を扱う第2回(2018)
・全員で選んだ作家をさらに掘り下げるため、自身が推薦する作家以外も担う第3回(2019)
・長野県の現代美術史の鍵となる作家を学芸員が総力をあげて扱うのが到達点の第4回(2020~21)
・選定委員を入れ、より公共性を持たせ、各学芸員が1人の若手作家を扱う第2回(2018)
・全員で選んだ作家をさらに掘り下げるため、自身が推薦する作家以外も担う第3回(2019)
・長野県の現代美術史の鍵となる作家を学芸員が総力をあげて扱うのが到達点の第4回(2020~21)
(2019年10月4日 代表者会議資料 中嶋実氏によるまとめ より)
第1回、第2回で行われた、ひとりの学芸員がひとりの作家を探し出し、紹介するという方針は一学芸員としての方向性、個人単位の美術的趣向が大きく反映されるものだった。
々の活動地域に点在する若い作家の発掘と、彼、彼女らに活躍の場を提供したいという気持ちは各館の通常業務、美術館の方針とは別の意識として、個人単位の意欲的な活動として裏打ちされるものだと考えられる。作家と学芸員がひとくくりとなった20組のチームが結成され、個々のチームとして出品作品の選定、展示構成や執筆文にも個性が表れる形であった。それぞれのチームの結束は強く、各展示エリアの色は濃くとも、全体構成として捉えれば斑な印象が少なからず垣間見える様相だったとも振り返られる。
第3回、4回は前回までから一転、ひとりの作家に対して複数人の学芸員がチームを組むこととなった。これは単なる方向転換などではなく、ユニオン(共同体)の本質へ向けた新たなはじまりでもあった。「長野県における現代美術史を紡ぐ」ということを参加者全員が念頭に置き、シンビズムの主義=ismの確立を目指せるよう臨んだ。この共通の意識のなかで、各地域に点在する美術館の学芸員同士の交流と連携が、非常に重要な要素と成りえるということに気付かされつつも、第1回、第2回の実践を経た皆の経験がそれを可能としてきたのは言うまでもないのかもしれない。事実、「シンビズム4」は長野県の現代美術史を俯瞰できる内容の展覧会を築きあげ、これまでのシンビズムの集大成、締めくくりとなった。
それではこれからどうなるのか。次はどうなるのか。故・本江邦夫監督が目指した「美的共同体」としての活動は回数を増す毎により堅固になり、その範囲を広げて来た。それはシンビズムの存在がワーキンググループとして学芸員同士の繋がりを強め、一種のコミュニケーションツールとして機能してきたからだと言える。また複数回の共同企画の末、展覧会として形を成すまでの試みを、芸術文化ネットワークの指標となるべく実践してきた結果であるとも言える。作家をはじめ、携わった全ての関係者、そして展覧会に訪れてくれた全ての方々を含めた「美的共同体」の輪の広がりこそが長野県の芸術文化の範囲を押し広げてゆくものだと信じて、一度集大成を向かえたシンビズムは、歩みを止めずそのさらに向こうへと進むことを選択した。「シンビズム5」がはじまるのは必然だったと言える。
々の活動地域に点在する若い作家の発掘と、彼、彼女らに活躍の場を提供したいという気持ちは各館の通常業務、美術館の方針とは別の意識として、個人単位の意欲的な活動として裏打ちされるものだと考えられる。作家と学芸員がひとくくりとなった20組のチームが結成され、個々のチームとして出品作品の選定、展示構成や執筆文にも個性が表れる形であった。それぞれのチームの結束は強く、各展示エリアの色は濃くとも、全体構成として捉えれば斑な印象が少なからず垣間見える様相だったとも振り返られる。
第3回、4回は前回までから一転、ひとりの作家に対して複数人の学芸員がチームを組むこととなった。これは単なる方向転換などではなく、ユニオン(共同体)の本質へ向けた新たなはじまりでもあった。「長野県における現代美術史を紡ぐ」ということを参加者全員が念頭に置き、シンビズムの主義=ismの確立を目指せるよう臨んだ。この共通の意識のなかで、各地域に点在する美術館の学芸員同士の交流と連携が、非常に重要な要素と成りえるということに気付かされつつも、第1回、第2回の実践を経た皆の経験がそれを可能としてきたのは言うまでもないのかもしれない。事実、「シンビズム4」は長野県の現代美術史を俯瞰できる内容の展覧会を築きあげ、これまでのシンビズムの集大成、締めくくりとなった。
それではこれからどうなるのか。次はどうなるのか。故・本江邦夫監督が目指した「美的共同体」としての活動は回数を増す毎により堅固になり、その範囲を広げて来た。それはシンビズムの存在がワーキンググループとして学芸員同士の繋がりを強め、一種のコミュニケーションツールとして機能してきたからだと言える。また複数回の共同企画の末、展覧会として形を成すまでの試みを、芸術文化ネットワークの指標となるべく実践してきた結果であるとも言える。作家をはじめ、携わった全ての関係者、そして展覧会に訪れてくれた全ての方々を含めた「美的共同体」の輪の広がりこそが長野県の芸術文化の範囲を押し広げてゆくものだと信じて、一度集大成を向かえたシンビズムは、歩みを止めずそのさらに向こうへと進むことを選択した。「シンビズム5」がはじまるのは必然だったと言える。
全4回のシンビズムを終えて、これから迎える「新しいシンビズム」は、継続の使命感や実行する意欲とともに、これまで同様常に付きまとってきた手探りからの模索と挑戦の繰り返しにより、いかに〝変化〟するのか。新しく加わる学芸員。新しく選出された作家たちと、これまでとはちがう美術館を新しい会場とすること。教育普及活動の重要性を説くべく組まれた新チームの編成と、対話型鑑賞の実践。すべては「美的共同体」としての力が今現在の形まで育ち広がったからこそ叶えられた姿であるということを魅せる展覧会としたい。
新しい11人と表現の勢い
「シンビズム5」はこれまでの1~4を混ぜ合わせたような年齢幅がある。70年代の反芸術が推し進められる中、自らの表現を確立させてきた〝ベテラン〟作家として、高見澤文雄(1948−)や丸山富之(1956−)らがいる傍ら、疋田義明(1992−)や中村ヒカル(1994−)のように、美術大学を卒業後まもなく作家として歩み出した平成生まれの〝若手〟作家もいる。絵画、写真、陶、彫刻、インスタレーションと作品分野もさまざまであるが、それも一筋縄ではなく、今回集中した正に全盛期の活躍をする30代から40代の作家たちを筆頭に、「シンビズム5」の作家陣が捉える美術の風景からはどれも「新しい見え方」を感じさせられる。制作段階での空間への意識や向き合い方。空間内で配置展開するという展示方法。行為の繰り返しとしての表現の蓄積。別媒体同士の境界線が交錯することで新たに生まれてくる形。多様な美術において、決して共通項を見出し解き明かそうとするわけではないが、これから紹介していく新しい11人のそれぞれの表現方法、美術に挑む姿勢から「シンビズム5」が信州の美術の〝現在の姿〟を写し出す鏡として「新しくはじまるシンビズム」であることを予感させる。そしてそれが、常に最新の現代美術を追い求めるシンビズムであることの証明になるのではないだろうか。
高見澤文雄は70年代の反芸術の時代の中、サウンドアート《柵を越えた羊の数》(1974年)を発表する。日ごと眠りにつくまでの間、淡々と羊の数を数える自らの肉声が収められたカセットテープを複数台同時に会場内にて流すといった作品だが「個の記憶の修正としての〝複製行為〟」として寺山修司に讃えられた。その後、素手で絵具を練り込み指で引いた線を重ねた抽象画面や、色の層を重ねたオブジェで平面表現を模索し続け、近年では、水面の模様をなぞり深層を探るかのように色区分された網目状の筆線が交差する〝行為の積み重ね〟による抽象にいきついた。
長門裕幸は、混色の深みがある激しい筆致の油彩画を主体とするものの、表現単体では決して完結することなく画面が構築されていることが見て取れる。湧泉や巨木、植物などという無為自然を題材に置き、コラージュや版画などといった異種の素材と技法を組み合わせる。画面からは強い安定感と、そこに常に付きまとうかのような変化、喪失の予感が同調している。それは長門自身が追い求める「描く」と「消す」という絵画行為における対照的な事象の連続性そのものの着地点として表出した姿なのではないだろうか。
赤羽史亮の絵画は麻袋の生地や砂利を用いることで荒々しく表現された物質性のある肌感と、画面に付着するかのように大きく盛り上がりをみせる隆起的な絵具使い、そして塊としての量感を持つ。自ら「みえない世界」と称する土の中には石や砂、酵素や細菌、キノコの胞子といったミクロの世界が広がるイメージでもあり、キャンバスは大地の断面のようにも捉えられ、それ自体が大きな生命体としてとして呼吸をしているようでもある。土中に埋もれる人間や生物は原初の感覚的な図像イメージにも近く、人体における内蔵とそこを通り抜けていく排泄物という体内世界も同様のイメージとして絵画で表現される。
疋田義明の描く油彩画の主題は、自らが生きる最小範囲の世界にあり、地元郷里での生活を写す。家族とともに過ごす家内の風景、人物像から読み取れる限られた空間での日常的事象は非常に牧歌的であり、また時に宗教画の場面ような重厚さをも併せ持つ。内面に深いメッセージ性を秘めているようで、実際には重要な意味などないのかもしれない。描くことへ集中する疋田の意識が、悩み抜かれた筆致と画面上でなお混ざり合う強烈な色彩となって絵画の表情として残されており、純粋なまでの描画表現として際立っている。
ムカイヤマ達也は、独学で絵画制作を開始した。「絵画」という手段・媒体は、ムカイヤマにとって現実と虚構の境界線上に置かれる窓枠のような存在であり、虚無の実像を視認する手段でもある。この窓枠の向こう側に設計され構築された造形は、平面表現でありながらも立体物として物質化されていく。インスタレーション作品《あなたにとって虚構でも、それは私の上に実存するもの》(2015年)は、空間に配置されたキャンバスと、そこに描かれたモチーフとが境界線を跨いで入り乱れる。空間表現は作家と鑑賞者とのコミュニケーションツールとして、現実世界へ浸透する絵画を垣間見ることができる。
横山昌伸は、静物画の系譜を辿りつつ、視覚実験と知覚の研究の実践を行い「現代的な静物画」の制作を行う。「still life series」と題された連作は、複数の白い幾何学的な立体物や、複雑に絡み合った植物群を対象に、同一のモチーフを異なる環境、異なる視点、焦点で部分的に撮影した複数枚の画面の集合体である。観賞者はそれぞれの断片から視覚的に異なる印象を受けつつも、複数によって作り出されたひとつとしての様態を観察することになり、新しい静物画の見方を知ることとなる。
丸山晋一は肉眼で見えない美が存在することに着眼し、水や光による瞬間の形や現象を造形と捉え、高速撮影により写真に収める。2006年から制作が開始された「空書 -Kusho-」は空中に描かれる書として、「Water Sculpture」(2011年)は水の彫刻作品としての連作である。液体が宙を舞うフォルム、その流動的な状態変化や飛沫の動きから一瞬の形を切り出す。また、水滴のなかに色の存在を発見したことをきっかけに、虹が見える原理を利用し、水滴(水玉)と光を扱い立体的な虹の形を写し出す「Light Sculpture」(2016年~)に取り組む。
津金多朗の粘土による立体表現、作陶のおもなモチーフは人体表現であり、流動状の粘土を塗り付けていったかのようなマチエールの表面には無数の孔が空いている。津金は造形物の「外と内」「虚と実」の関係性に興味を持ち、作陶に孔を記すことで物体の境界線をぼやけさせ、淡い彩色とも相まって存在を曖昧に知覚させる効果を持たせる。近年、焼き物の素地を扱う感覚と似通うものとして、色鉛筆特有の顔料をこすり付けることで発色する微粒子の表情と、自らの運動に作用する効果に着目した平面表現を行う。
中村ヒカルは手びねりによる陶のオブジェを量産する。有機的に盛り上がる全体像は想像の怪物の姿形や故郷の山々の起伏をイメージして作られる。それらの肌質や自然の細かな表情までをも写し出すかのように表層を覆い尽くす繊細な装飾は、面として浮彫りのレリーフ状にも仕立てられ、無数のパターンでみるものの触覚にまで訴えかける。自身の制作の根源的な主題を「空想」であるとする中村は、自身に付きまとうネガティブな心境を、空想を具現化させるという行為によりポジティブに変換する。
丸山富之は彫刻家として30年以上に渡り、石を素材に制作を続けている。86年から反復し制作し続けるL字型のフォルムは「地平から空への働きかける」という意識のもと、立方体の硬質砂岩の塊から削り出されている。面としてみた素材の質感、床からやや浮かせた設置面から、そこに置かれているという石の大きさや重量を忘れさせ、穏やかでミニマルな形象物として存在する。丸山自身が「石を彫っているのではなく空間を彫っている」と語るように、物質を取り囲む空間への意識と、石から空間を切り出すという制作の表現が展示空間にも作用し、空間を知覚させる媒体として設置される。
そして最後に持田敦子である。持田は既存の空間、建築を意識し、仮設壁面や工事用の足場を挿入させることで場の既視感を歪ませる。複数基の階段構造を組み合わせた立体造形物《Steps》は、設置される場所に合わせて常に新しく構築される。ソフトウェアとしてのインスタレーション作品である。〝階段〟といった非常にシンプルなモチーフだが、設置された空間に作用し、その空間を凌駕するほどのサイズ感と存在感を放つ。「TERRADA ART AWARD 2021」にて 片岡真実賞を受賞した持田の《Steps》(2021年〜)は、今日の美術界の席巻を予感するものでもある。正に全国区の作品出品により「シンビズム5」がこれまでとは大きく異なる様相を醸し出すものとして印象付けられ、シンビズムを指す言葉のひとつ「新しい美術」を象徴するシンボリックで先端的な存在となりえるのではないだろうか。教育普及プログラムの一環として開催された「シンビズム2022 対話型鑑賞事業」では山ノ内町立志賀高原ロマン美術館の黒川紀章建築内に展開され、自然光のみに照らされるように設置された《Steps》の存在により、既存の空間の広さを再認識させられ、場の特質や価値までをも引き上げた。
新たな会場と、その個性
最後に「シンビズム5」の会場となるのは東信会場として小海町高原美術館と丸山晩霞記念館(東御市)、南信会場に信州高遠美術館(伊那市)、北信会場に山ノ内町立志賀高原ロマン美術館の4館である。特筆すべきは新たな会場となる3館の建築と規模が非常に似通っている部分にある。1997年に信州の高原リゾート地に建てられ、昨年ともに25周年を迎えた小海町高原美術館と山ノ内町立志賀高原ロマン美術館は、それぞれ安藤忠雄と黒川紀章という世界的建築家の設計による建築である。また、1992年に当時高遠町立の美術館として開館した信州高遠美術館は、長野県ゆかりの建築家であり、長野市立博物館や松本市美術館はじめ同県を中心に多数の公共建築を残した宮本忠長によるものである。いずれも管理・運営といった規模感が等しい町立規模の美術館であり、周囲の自然環境のなかに溶け込む打ち放しコンクリート造りの外観という点も酷似している。建築家の哲学が盛り込まれた建築構造はそれぞれの館の個性として館内構造や展示室内にも反映され、それらは目に見えて展覧会にも影響してくることだろう。
過去2回、会場館を担い教育普及活動の拠点としての特質を持つ丸山晩霞記念館を含め、「シンビズム5」の会場は非常に印象強い4館での開催に至る。全県下に美術館施設が広く分布する長野県において、各美術館が点在する地域にはそれぞれの環境、文化、歴史が存在し、地域性として根付いている。それらの館にどのように作家と作品が落とし込まれていくのか、これもシンビズムの特徴でもあり、醍醐味でもある。今回、空間を意識させる作品、空間に作用する表現が多いように感じられる。会場館の〝場〟としての重要性、役割は言うまでもなく、作品との相互関係により、長野県という地域ならではの美術が姿を表すのではないだろうか。
過去2回、会場館を担い教育普及活動の拠点としての特質を持つ丸山晩霞記念館を含め、「シンビズム5」の会場は非常に印象強い4館での開催に至る。全県下に美術館施設が広く分布する長野県において、各美術館が点在する地域にはそれぞれの環境、文化、歴史が存在し、地域性として根付いている。それらの館にどのように作家と作品が落とし込まれていくのか、これもシンビズムの特徴でもあり、醍醐味でもある。今回、空間を意識させる作品、空間に作用する表現が多いように感じられる。会場館の〝場〟としての重要性、役割は言うまでもなく、作品との相互関係により、長野県という地域ならではの美術が姿を表すのではないだろうか。
山ノ内町立志賀高原ロマン美術館
鈴木 一史
“Shinbism” Continues/ What the Union Has Achieved
“Shinbism 5” exhibition will soon open. Until now, we have held four “Shinbism” exhibitions and introduced 65 artists connected to Nagano Prefecture, in 14 venues totally. This time, an additional 11 artists will participate in the circle of “Shinbism” anew.
TAKAMIZAWA Fumio, one of the exhibitors in this “Shinbism 5,” had pursued abstract paintings with layers of lines drawn by his bare fingers with paint, and also objects consisting of layered paint, since the era of “anti-art” in the 1970s. After that, he came to create abstract paintings expressing patterns of water surface with mesh-patterned brush strokes, intersecting with that above, as if searching for deeper water. As for NAGATO Hiroyuki, the oil paintings characterized by the depth of color mixing are the main feature of his works. However, what constitutes his work is not completed as a single painting. It continues to change in the form of compositions of plural surfaces and materials. The paintings of AKAHANE Fumiaki with paints and other materials that rise up, giving a sense of pressure of underground, convey viewers overwhelming vitality and materiality contained in the earth, together with the human figures buried there. On the other hand, HIKITA Yoshiaki, who produces idyllic paintings in the theme of everyday events, including families, pursues pure expression in his paintings where strong colors stand out.
MOCHIDA Atsuko, who built an installation entitled “Steps,” that combines literally a number of steps, overwhelms viewers by the scale of her works. By contrast, stone sculptures by MARUYAMA Tomiyuki, conveying a profound and consistent feelings of existence, seem to sincerely reflect his consciousness, not only toward the space around the objects themselves, but also toward the exhibition spaces as a whole, which can be seen as early as the beginning stage of his production. He says, “I’m chiseling a space, not a stone.” Then, those artists pursuing expressions which draw viewers’ consciousness toward the space, as well as toward the constructions or objects as substances to be placed there, are YOKOYAMA Masanobu, MUKAIYAMA Tatsuya and MARUYAMA Shinichi. They explore their respective expressions as if their works are embodying the dividing lines themselves between the two- and three-dimensional works, trying to synchronize two-dimensional works (paintings or photographs) with the concepts and shapes in three-dimensions.
Moreover, two kinds of ceramic works are introduced as well. The one is TSUGANE Taro’s ceramic works. Entire views of his works are completed by including the gaps left between the layered ceramic materials. Along with ceramic works, his pencil drawings derived from them will be on exhibit as well. The others are ceramic works by NAKAMURA Hikaru, which keep changing while arousing various kinds of tactile sensations. They evoke a positive image in the viewer, though seeming harsh at first glance.
There are four museums belonging to the venues of the “Shinbism 5” exhibition, which include the Koumi-machi Kougen Museum of Art, the Maruyama Banka Memorial Museum (in Tomi City,) the TAKATO MUSEUM OF ARTS (in Ina City) and the Shigakogen Roman Museum (in Yamanouchi Town). Three of them are new additions. Because of the special circumstances of the museums in Nagano Prefecture, where museums are sparsely scattered over the prefecture and are under the strong influences of their local environment, history, culture and arts, something unique to “Shinbism” is expected to be seen in the “fusion” of these respective museums themselves, with the various artists assigned there and their works as well.
TAKAMIZAWA Fumio, one of the exhibitors in this “Shinbism 5,” had pursued abstract paintings with layers of lines drawn by his bare fingers with paint, and also objects consisting of layered paint, since the era of “anti-art” in the 1970s. After that, he came to create abstract paintings expressing patterns of water surface with mesh-patterned brush strokes, intersecting with that above, as if searching for deeper water. As for NAGATO Hiroyuki, the oil paintings characterized by the depth of color mixing are the main feature of his works. However, what constitutes his work is not completed as a single painting. It continues to change in the form of compositions of plural surfaces and materials. The paintings of AKAHANE Fumiaki with paints and other materials that rise up, giving a sense of pressure of underground, convey viewers overwhelming vitality and materiality contained in the earth, together with the human figures buried there. On the other hand, HIKITA Yoshiaki, who produces idyllic paintings in the theme of everyday events, including families, pursues pure expression in his paintings where strong colors stand out.
MOCHIDA Atsuko, who built an installation entitled “Steps,” that combines literally a number of steps, overwhelms viewers by the scale of her works. By contrast, stone sculptures by MARUYAMA Tomiyuki, conveying a profound and consistent feelings of existence, seem to sincerely reflect his consciousness, not only toward the space around the objects themselves, but also toward the exhibition spaces as a whole, which can be seen as early as the beginning stage of his production. He says, “I’m chiseling a space, not a stone.” Then, those artists pursuing expressions which draw viewers’ consciousness toward the space, as well as toward the constructions or objects as substances to be placed there, are YOKOYAMA Masanobu, MUKAIYAMA Tatsuya and MARUYAMA Shinichi. They explore their respective expressions as if their works are embodying the dividing lines themselves between the two- and three-dimensional works, trying to synchronize two-dimensional works (paintings or photographs) with the concepts and shapes in three-dimensions.
Moreover, two kinds of ceramic works are introduced as well. The one is TSUGANE Taro’s ceramic works. Entire views of his works are completed by including the gaps left between the layered ceramic materials. Along with ceramic works, his pencil drawings derived from them will be on exhibit as well. The others are ceramic works by NAKAMURA Hikaru, which keep changing while arousing various kinds of tactile sensations. They evoke a positive image in the viewer, though seeming harsh at first glance.
There are four museums belonging to the venues of the “Shinbism 5” exhibition, which include the Koumi-machi Kougen Museum of Art, the Maruyama Banka Memorial Museum (in Tomi City,) the TAKATO MUSEUM OF ARTS (in Ina City) and the Shigakogen Roman Museum (in Yamanouchi Town). Three of them are new additions. Because of the special circumstances of the museums in Nagano Prefecture, where museums are sparsely scattered over the prefecture and are under the strong influences of their local environment, history, culture and arts, something unique to “Shinbism” is expected to be seen in the “fusion” of these respective museums themselves, with the various artists assigned there and their works as well.